久しぶりに兄さんが僕の家にやってきた。
兄さんはもう何年も前に、昔からあこがれだったという劇団に入って、そこの寮で下宿をしている。僕も親元を離れてひとり暮らしをしているのだけれど、兄さんは昔から僕の事をいたく可愛がってくれていて、実家に行くことがなかったとしても、時々は僕の所に来てくれているのだ。
時々、と言ってもそれは年に数回程度だし、前回来てからたっぷり一年は開いていた。沢山の人から賞賛を浴びるのが当然だと言う態度の兄さんのことだから、あまりそう言った声を掛けない僕に愛想を尽かしたのだろうかと思っていた。けれども、今日家にやってきた兄さんは上機嫌で、いつもは僕に料理を作らせるのに、材料を買ってきて台所に立っている。
兄さんに何があったのだろう。なにかそんなに、心境の変化があったのだろうかと訊ねる。すると兄さんは、フライパンの中身をお皿の上にあけながら、明るい声で、次の舞台で準主役に選ばれたという。
なるほど。今まで劇団に所属していたとはいえ、兄さんはなかなか華やかな役が貰えず燻っていたようだったから、今回の抜擢は嬉しい物なのだろう。本当は主役でもおかしくないんだけどね。と兄さんは言っているけれど、僕は料理をテーブルの上に運ぶのを手伝いながら、おめでとう。と言うしかできなかった。
ふたりで夕食を食べながら話をする。兄さんが今度貰った役はどんな物なのだとか、舞台初日には見に来いだとか、そんな話を聞かされて、ぽつりと兄さんが僕に訊ねた。最近、僕は何をして過ごしているのか、そんなことだ。
僕はひとり暮らしを始めてからずっと、色々な人から作曲の依頼を受けてそれを仕事としている。もちろん、仕事が途切れる事はあるけれど、最低限の生活は保障されているので生活には何も困らない。
兄さんが僕をじっと見てまた訊ねる。
「どんな相手から依頼受けてるの?」
「僕の曲を、必要としてくれる人から」
その答えに納得がいかないのだろうか。兄さんは眉尻を下げて泣きそうな顔をする。
兄さんが心配する理由は、僕にもわかっている。近頃歌を主体とする怪しげな宗教団体がふたつほど勢力を増してきていて、その両方からの依頼も僕は受けているのだ。
他のところに依頼しようにも受けて貰えず、自分たちで作曲をする事もできない。どんな事をしている団体なのか僕は知らなかったし興味も無かった。ただ、僕が作る曲を必要としてくれている。その一点だけが重要なのだ。
僕が抱える秘密に気づいてしまっている様子の兄さんが、僕の手に指を絡めて、もし必要になった時に自分専用の曲を作ってくれるかと訊ねてくる。僕は迷わずに勿論と答えた。何故だろう、他の人からの依頼の時とは違って、胸が跳ね上がった。
兄さんは嬉しそうに笑って、食器を片付けておくから僕にシャワーを浴びろという。時計を見てみると、気がつけばそろそろ兄さんが寝る時間になっていた。早めにシャワーを済ませて兄さんが寝る準備をしないと。
真夜中、兄さんとふたりで同じ部屋で寝ていると、何かの爆ぜる音と熱を感じた。身体が揺さぶられる。それから兄さんの声が聞こえた。
「起きて! 家が燃えてる!」
その言葉に飛び起きると、周りを炎で囲われていた。玄関か窓から外に出られるか。そう思って見回すとどちらからも出られそうに無かった。どうするべきかと考えながら耳を澄ませる。すると外から沢山の人の声が聞こえた。野次馬か。そう思ったけれども、そうではないとすぐさまにわかる言葉が聞こえる。あの家を燃やせ。確かにそう聞こえた。
このまま燃やされたとして、僕はどうなるのだろう。ぼんやりと考えていると、兄さんが床にある地下防音室への入り口を開けて僕の手を引いた。
「とりあえず、この中でやり過ごそう」
「なるほど、酸素は重い」
兄さんとふたりで梯子を下りて防音室へと逃げ込む。家を失うのは痛いけれども、ここでやり過ごせば助かる。そう思った。
それからしばらくの間、兄さんとふたりで家が焼ける音を聞いて、いつになったら外に出られるのだろうと手を取り合っていた。
兄さんは死にたくない。と、そう呟きながら手を震わせている。僕はここまで来て未だ死ぬかもしれないという実感が無い。どうしたら兄さんの不安を拭えるだろうと頭を働かせた。
そのうちに、家が焼ける音が止んだので、僕は入り口を開けようと梯子を登って手を掛けた。焼けていて熱くて押せない。不安がっている兄さんを早く外に出したいのに。思わず苛立っていると、入り口の隙間から水滴が滴ってきた。その水量は徐々に増していき、入り口を押し壊しそうなほどだ。
床に溜まっていく水を見て恐怖を感じた。どんどん水かさは増し、僕達の腰の高さになった。兄さんが僕に手を伸ばす。僕はその手を取る。最期に一緒に歌ってと請われる。僕と兄さんは口を開いた。
ふたりで歌うのは僕が初めて作った曲。ふたりの世界の終わりに、終わらない歌を。