薬の話のあと、イーヴはもう寝るようにとリンネに言った。アヘンチンキの残りが豊富にあるわけではないけれど、あれならば作り方がわかるから自分で作ると、そう言っていた。
自室のベッドに潜り込んだリンネは、本当はイーヴが自分の提案に怒り心頭なのではないかと不安になった。これからずっとというわけでなくとも、少なくとも今夜はもう自分の顔を見たくないのかも知れない。
なにはともあれ、休む時間は少しでも多い方が良い。眠れるときに眠っておかないと、いざという時にミスをしてしまう。そう思って掛布を頭まで被ったのに、全然眠くなってこない。目を閉じて静かにしていても、昼間ずっと薬のことを考えていたせいだろうか、気持ちが昂ぶったまま落ち着かないのだ。
このまま眠れずに過ごすくらいなら、自分もアヘンチンキを作った方がいい。そう判断したリンネは、ベッドから抜け出して調剤室に向かった。
「イーヴさん、いいですか?」
そう言って扉を開けると、ゆっくりとした手つきで薬を調合していたイーヴが振り返った。壁に掛かったランタンに照らされたその表情は、予想外にも怒りや苛立ちはなかった。
「どうしたんだリンネ君。君ももう疲れているだろうから、寝なくてはいけないよ」
心配そうにそういうイーヴの言葉に、怒っているのではないかと心配していた自分がすこし恥ずかしくなる。一瞬目を逸らしてから、リンネはこう返す。
「実は、気持ちが昂ぶって眠れないんです。
だから僕も薬を作るのを手伝った方がいいかと思って」
それを聞いたイーヴは、にっこりと笑って手招きをする。
「それは助かるね。それじゃあ、ここに並べた瓶一杯にアヘンチンキを作ろうか」
「はい、わかりました」
それからしばらくの間、ふたりは黙々とアヘンチンキを造り続けていた。
まだ星が輝いているけれども夜明けの気配がするようになった頃、並んでいた瓶は全ていっぱいになった。イーヴが改めてリンネに訊く。
「そろそろ眠くなってきたかな?」
リンネははにかんで答える。
「薬を作ってたら、ますます眠くなくなりました」
そんなリンネの頭をぽんぽんと叩いてイーヴがこう提案した。
「もうずっと働きづめで気持ちが張り詰めてるんだろう。少し、散歩をして気分転換しよう」
「一緒にですか?」
「そう、一緒に」
その申し出は、何故だかとても嬉しいもののようにリンネには思えた。ふたりは調剤室を後にして、まだ暗い街へと散歩に出かけた。
ランタンを持って街の中を歩く。街中に疫病が蔓延っているということが街に住む人の気持ちを塞いでいるはずだ。だけれども、皆が寝静まっているこの夜は、なぜだかとてもうつくしい物のように感じた。
ふたりが向かった先は、普段リンネがスイバを採集している河辺だ。リンネが言っていたとおり、ランタンで照らしてもスイバの姿はなかなか見つからなかった。
「ほんとうに、スイバがないね」
「そうなんです。昼間なら、少しは見つけられるんですけど」
ふたりでそんな風に言葉を交わす。思わず表情が曇ったけれども、川に目をやると、月と星とを映していた。それを見てイーヴがにっと笑う。
「そうだ、川に足を付けて、少し休めないかい?」
イーヴのその言葉に、リンネも笑顔で答える。
「そうですね。このところずっと疲れてるので、少し冷やしたいです」
ふたりは河辺で靴と靴下を脱いで、ズボンの裾を膝まで捲って水に足を付けた。それから、青い草で覆われている河辺に腰をかける。空を見上げる。月も星も白く輝いていて、心に染み渡るようだ。しばらくふたりとも黙っていたけれども、ふとイーヴが口を開いた。
「君がいてくれて、本当に良かったよ」
リンネが振り向く。
「私だけだったら、きっともっと早く潰れていたと思う。リンネ君には感謝しているよ」
「そんな、僕もイーヴさんのお世話になっていますし」
急に気持ちを打ち明けられて、リンネは少し照れくさく思う。そうしている間にも、イーヴは言葉を続ける。
「はじめ、君は小さくて頼りにならないと思っていたんだ。
でも、それは違った。君は誰よりも強い」
どうやって返せば良いのかわからなかった。自分が役立たずだと思ったことはないけれど、そこまで言われるほどのことをしてきた自覚は無いのだ。
けれども、そう言われるような強さを身につけられたのには心当たりがある。以前師事していた先生との生活と、そこから離れた後自分を受け入れてくれたイーヴや他の医者、街の人があったからだ。この感謝をどうやって伝えよう。そう思いながらぼんやりと月を眺める。それから、こう呟いた。
「月が綺麗ですね」
それを聞いたイーヴも、空を見上げたまま言う。
「ほんとうに、この街の悲劇など嘘のようだ」
そうしているうちに、東の空が白んできた。夜が明けてきたのだ。
「このままここにいるわけにもいかないね。そろそろ帰ろうか」
そうイーヴが立ち上がるので、リンネも立ち上がって川から上がる。ふたりはハンカチで足を拭いてから靴下と靴を履き、元来た道を戻った。
今日も、明日も、きっとこれからまだしばらく、黒死病との戦いは続く。けれどもこの河辺での出来事は、少しとはいえリンネの気持ちを晴々とさせてくれた。今日はもう、寝ている暇はないだろう、それでも、また一日やっていくのだ。
今の自分はひとりではない。