春になって随分と暖かくなってきた頃。オレは例によってツツジに呼び出され、また掃除の依頼を受けていた。
一通り場所の指示を受け、これから一仕事するかとソファから立ち上がろうとしたところで、ツツジにこう言われた。
「そう言えば、前々から思ってたんだけど」
「ん? なに?」
「あんたもスーツとかそう言うきっちりした服を一着は持ってた方が良いよ」
持っていた方が良いのはわかるけれど、なんで突然そんな事を言うのだろう。
ツツジのことを思わず見ると、きっと不思議そうな顔をしていたんだと思う。ツツジが続いて説明してくれた。
「気付いてると思って言ってなかったんだけどね、あんたがここで仕事した後、 不審なやつが彷徨いてるって話が社内で上がるんだよ。
それで、うちの社員にあんま不安を与えたくないから出来ればスーツを着て欲しいって言うのはある」
「あー、うん。めっちゃ不審な物を見る目でよく見られてる」
「やっぱ自覚あったか」
しまったなぁ、想像以上に、知らぬ間に不安を振りまいていたみたいだ。でも、スーツって動きにくいって聞くから、 そんな物を着て仕事をしろというのもなかなかに大変な感じがする。でも、いらない不安を抱えさせておくのも、 オレの仕事としても不利に働くからなぁ。
「わかった。次までになんとか……出来るかはわかんないけど、取り敢えずなんとかするわ」
「ああ、注文つけてばっかで悪いけど頼むよ」
もしかしたら、オレの服装のことでツツジも結構いろいろ言われてたのかも知れない。 なんかほんと悪いことしちゃったな。
反省しながら、フロアマップを手に持って、掃除をするためにその部屋を出た。
それから数日後、勤とジョルジュに声を掛けて、 どんなスーツを買えば良いのかの相談をすることにした。集まったのは、 秋葉原にあるパティスリー。仕事以外の話をする時は、 個室の飲み屋よりもここでケーキを食べながらダラダラしていることが多い。
「という訳で、スーツ買わなきゃいけないんだけど、あれ動きにくいんだよな?
おまえらどうしてんの?」
疑問でもやもやした気持ちをブルーベリーのパイと一緒に飲み込んでそう訊ねると、勤は難しそうな顔で言う。
「うーん、俺は仕事の時、ジャケットはあんまり着てなくて、 ベストだけのこと多いんだよ。寒い時期なんかはジャケット着て依頼人のお宅にお邪魔するけど、 作業してる時はジャケット脱いでる」
なるほど、ベストだけなら腕周りを動かしにくいって事もあまりないよな。でも、 ジョルジュも仕事のときそうなのだろうか。それを訊ねると、ジョルジュはさも当然のようにこう答えた。
「ああ、僕は仕事中にジャケットを脱いだりはしないよ。スーツも仕事着だからね」
「えー、でも動きにくくない?」
「動きやすいスーツを仕立てて貰うんだよ」
おっとさらっととんでもないこと言ったぞ? 勤もそこは気になるところだったらしく、驚いた顔をしている。
「え? 仕立てってオーダーメイドじゃないよな? セミオーダーくらいだよな?」
オーダーメイドはわかるけど、セミオーダーってなんだろう。ちょっとした疑問が湧いたけれど、 それに気づかない様子でジョルジュはこう説明する。
「セミオーダーだとある程度型が決まってしまっているから、僕はオーダーメイドで、 運動量多めのパターンで注文しているよ」
「まじかよ」
「ヒュゥ、金持ち~」
ジョルジュがいいとこの坊ちゃんだってのは知ってたけど、それをあからさまに聞かされると感心しか出来ない。
オレ達の言葉が冷やかしに聞こえたのだろうか、ジョルジュが困ったように笑って言う。
「まぁ、一度に払う金額は確かに大きいかも知れないけれど、長持ちするしアフターケアもしっかりしているからね。
イツキも、一張羅にするつもりならオーダーメイドしても良いんじゃないかな」
なんかとんでもないこと言われてる気がする。でも、オーダーメイドかぁ。あの会社に出入りするなら、 それくらいしっかりした物が有っても良いだろうし、他の依頼の時、 急に改まった服装が必要になったりするかも知れない。
「えー、じゃあ、オレがオーダーメイドしたいって言ったらどっか良い店教えてくれる?」
「ああ、それは勿論だよ。今度その店まで案内しようか?」
「頼めるなら頼みたい」
オレとジョルジュのそのやりとりを聞いて、勤は表情が固まっている。
「まじでまじで……イツキまじでオーダーすんの……」
え? 服のオーダーってそんなビビるほどこわいもんなの?
不思議に思ったけれど、ジョルジュと日程と待ち合わせ場所の打ち合わせをした。
それから一週間ほどして、オレはジョルジュとの待ち合わせ場所、関内駅の馬車道改札前に向かった。
慣れない場所だけれど、取り敢えず辿り着けば何とかなるだろうと、携帯電話で乗り換えを確認しつつ、 目的の駅に辿り着いた。改札が二つあるけれど、どっちがどっちだろう。……と思いながら目についた改札の外を見ると、 向こう側でジョルジュが手を振っていた。
ICカードを自動改札に叩き付けてジョルジュの所へ行き声を掛ける。
「よっすおまたせ」
「いや、僕も来たばかりだよ。それじゃあ、お店に案内しようか」
地上に上がり、大きめの通りをしばらく歩きながら周りを見渡すと、なんだか、 どこを歩いてもおしゃれな感じがしてこれが横浜か。と妙に納得する。
目的の店にはすぐに着いた。茶色く塗られた壁が落ち着いた雰囲気のビルで、 店内は暖色の照明で照らされている。
普段こんな高級そうな店には来ないのでビビってしまうし勤がビビっていた理由もすごくよくわかった。 思わず店の前で固まっていると、ジョルジュは何の躊躇いも無く店の中へ入っていく。確かに、 オレがオーダーしたいって言って来たんだからオレが入らなきゃどうしようも無いのはわかる。だから、 勇気を振り絞って店内に入った。
店内に入り、ジョルジュが店員さんと軽いやりとりをした後、 机を挟んで向かい合わせに置かれている椅子を勧められ、 そこに座って色々話を聞いたりなんなりして今はスーツにする生地を選んでいる。
「丈夫な物をご希望でしたら、 こちらの生地が耐久性も高くカッチリとした作りにし易いです。動きやすさを重視するのでしたら、 こちらの生地が軽くて良いですね。
今回は運動量多めというご希望ですので……」
うわすごい、布だけでこんなに種類がある上に差があるんだ。正直、 いままで布なんてみんな似たような物だと思っていたから、改めてこんな風に説明をされると頭がパンクしそうになる。
それでもなんとか布を選び、これからサイズを測るのかな? と思ったら、店員さんが席を外し、 また別の布のサンプルを持ってきた。
「それでは、次は裏地を決めましょう。
表地がこれでしたら、裏地はこちらの……」
まだ選ぶの?
後から後から出てくる布のサンプルを前に頭をクラクラさせてると、隣でジョルジュが少し困ったように笑って居た。
それから数時間後。ジョルジュの助言を貰いながら何とか布を選び終わって、スーツの形も決め、採寸も終わって、 関内駅周辺にあるカフェで食事を食べていた。
「すげぇ……やべぇ……オーダー疲れる……」
思わずげっそりしながらナポリタンを食べていると、向かいに座ったジョルジュがトーストをちぎりがなら言う。
「確かに大変だけれども、イツキも頑張ったね。ああいう店は心底慣れていないだろう?」
「慣れる理由がないからな~」
ほんと、心底疲れたけれど、これで仕事の時に役に立つなら、この苦労も報われるんだろう。
それにしてもと、あの店のことを思い出す。
オレの接客をして採寸もしてくれたあの男の店員さん、お針子もやってるって言ってたけど、 結構裁縫する男子って多いのかな? 今目の前でトーストを食べながらコーヒーを飲んでるジョルジュも、 大学は服飾科だったって言うし、裁縫って女だけがやるもんじゃないんだなと、なんだか不思議な感じがした。