ライラックに霞む

 先輩は太陽のような人だ。
 かつて、治療法の無い難病を抱えた兄のために、なにかできないかと手探りでもがいて、思いつめて、悩んでいた僕に、先輩は手を差し伸べてくれた。助けを求めたら、快く応じてくれた。
 いつもにこにこしていて、誰にでも優しくて、でもそそっかしいところがあったり、勉強の成績が良くなくて、放っておけなかった先輩。
 きっと先輩は、僕に会うまでの人生で、色々な人から沢山優しくされて、大切にされて育ってきたのだと思う。だから、思い悩んでいた僕にその優しさを分け与えることになんの疑問もなかったのだろう。
 僕が先輩に頼られることもたまにはあったけれども、僕は随分と先輩を頼りにしていた。兄さんの容態が悪くなって心細くなった時や、兄さんの介護で少し疲れてしまった時など、たくさんの弱音をぶつけても、先輩は僕を責めることはしなかった。どれだけたくさんの悩みを打ち明けても、先輩は根気強く聞いてくれた。
 そして、先輩も時折僕に困っていることを打ち明けてくれた。それはたまにしかないことだったけれども、先輩の悩みを聞かされた時は、僕は先輩に頼りにされているのだと嬉しく思った。
 僕の悩みを聞いてくれて、自分の悩みを打ち明けてくれる先輩の存在に、僕はどれだけ救われただろう。他の誰に話しても相手にされなかった僕の話を、ただ聞いてくれるだけでも僕はどうしようもないほどの救いを感じたのだ。
 学校を卒業して、先輩は就職してしまったし、僕は一年だけ浪人して医学部に入った。全く違う道を歩んでいる僕達だから、当然会える機会は減ってしまった。
 先輩に会えない時間がたくさん増えたけれども、それでも、たまに会えた時なんかは、先輩はいつだって、高校時代に見せてくれたあの人懐っこい笑顔を僕に向けてくれる。なかなか会えなくても、その笑顔をたまにでも見られるのなら、つらくて大変なことが多い毎日を乗り越えられる気がしたし、実際に乗り越えることができている。
 時折、眠っている時に、高校時代の夢を見る。咲き乱れるライラックの花の房の隙間から、微かに見える先輩の笑顔。あの輝かしい時を、夢の中で何度も何度も思い出す。その度に強く思うのだ。本当はずっと先輩の側にいたいのだと。
 けれどもそれは叶わない夢だ。何度てのひらですくい上げても、指の間からこぼれ落ちてしまう儚い夢。あまりにも遠い物語。けれどもそれは何度でも蘇り、僕の心を動揺させる。
 夢から覚めて、いつもの日常に戻ると、時折泣きそうになる。僕は自分で志した目標のために前に進めているし、そのことにやりがいと生きがいを感じている。それでも、あの叶わない夢を思い起こすと涙が溢れるのだ。 時の流れを巻き戻したいと思うこともある。でも、それはできないことだし、できたとしてもやってはいけないことなのだ。いつまでも過去にしがみついて前に進むことができないなんてことは、少なくとも今の僕にはあってはならないことなのだ。
 先輩と一緒に過ごした高校時代が終わって、何回目の春だろう。暖かいはずの風に吹かれて、なぜか心が震える。これは、あの輝く時が思い出の彼方へと葬り去られて、忘れ去ってしまうことをおそれているのかもしれない。
 咲き乱れるライラックが太陽の光を受けて輝き、風に揺れる。甘い香りで周囲を満たす。そんな情景を、僕は実際には見たことがないはずだ。それなのに、夢の中で見る高校時代は、輝く時の思い出は、いつだってライラックの花の隙間から見えている。僕と思い出との境目を覆っているライラックは、まるで牢獄の檻のようだ。牢獄の中にいるのは僕なのか、それともあの輝かしい日々なのか、それともその両方なのか、それはわからないけれども。
 ライラックの牢獄を思い出しながら、ぼんやりと川の流れを見る。揺れる水面が陽の光を照り返してきらきらと輝いている。
 なんて眩しく、暖かい光なのだろう。あの光は、先輩の笑顔に似ている。明るくて、心を暖めてくれる。
 そう、先輩の存在はとても眩しくて、暖かくて、紛れもなく僕を照らしてくれる太陽そのもの、僕にとっての太陽なのだ。ずっと太陽に照らされていたいと願っても、それは叶わないのだろう。なぜなら、僕は太陽に相応しくないからだ。
 太陽に相応しくない、先輩に相応しくない。もしかしたら先輩にそう言ったら、先輩はそんなことはないといってくれるかもしれない。それでも、僕には自分が先輩には相応しくないと思ってしまう理由があるのだ。
 自分でその理由がわかっている。そしてそれを上塗りするように、きっといつか僕は、ひとりで軌道線を外れるのだと思う。そのいつかがいつ来るのかはわからない。本当に来るのかもわからない。もしかしたら、すでにそのいつかを迎えてしまっているのかもしれない。けれどもお願い、先輩だけは、軌道線を外れる僕のことを見捨てないで。
 そして、どうかいつか走り疲れた時は、僕の側にいて下さい。

 

†fin.†