第一章 オペラ座の練習風景

 ここはとある国に有るオペラの劇場。首都に置かれた壮麗な劇場。この劇場では一年の内に限られた期間、 歌手や踊り子が観客を魅了する舞台が繰り広げられていた。

 裕福な暮らしに慣れた貴族達ですら引き込んでしまう華麗な舞台は、 歌手や踊り子達による日々の練習で作り上げられている。この日も、夕刻から始まるオペラの舞台のために、 観客の居ないホールで練習が行われていた。役者が歌い、踊り子が踊る中、誰よりも目を引く男性歌手が居た。 波打つサックスの髪、意志の強そうな眉、真っ直ぐ周りを見据える瞳、そして他人が見上げるほどの長身に恵まれた彼は、 役者では無く合唱のみを担当する歌手で、名をウィスタリアという。彼のパートは、 バリトンだ。その低くよく通る声が必要とされる場面に差し掛かるまで、心の準備をし、 根気強く待つ。それは練習中でも同じ事だった。

 この日の練習でも、ウィスタリアは舞台袖で自分の出番を待っていた。待ちながら、 他の役者や踊り子の動向をしっかりと見つめ、心の中で最適の段取りを考える。その中で異変が起こった。舞台の上で、 装置を使って空中に吊されていたひとりの踊り子が降りてこないのだ。これはどうやら舞台装置の故障らしい。 こういった事はオペラの舞台ではままあることで、大体の場合、不具合は無い物としてそのまま演技は続いていく。 ウィスタリアもその事はわかって居るのだけれども、どうしても、宙吊りになってしまっている踊り子が心配でならなかった。 段取りを考えながらも、不安は膨らんでいく。宙吊りになった踊り子がじたばたと体を揺らし、弧を描く。そして一瞬、 その動きが変わった。ウィスタリアはそれを見て、舞台に飛び出す。他の役者は何が有ったのかという顔をしたけれども、 ウィスタリアが数歩舞台の上を駆けたところで、踊り子を吊していたロープが切れた。

 悲鳴を上げ踊り子が落下する。この劇場の天井は、吹き抜けで三階建て相当の高さがある。 その様に高いところから落ちる踊り子を皆が悲鳴を上げて見た。これは大けがを免れない。皆がそう思う中、 踊り子は床の上に落ちる。踊り子が木の床に叩き付けられる音が……しなかった。驚いた顔の役者と他の踊り子達。 落ちた踊り子と床の間には、ウィスタリアの大きな体が有った。

 華奢な体とは言え、高所から落ちたひとりの人間を受け止めたウィスタリアが、掠れた声で言う。

「大丈夫? どこか痛いところは無い?」

 踊り子の下に走って滑り込み、自分も痛い思いをしているのにも関わらず、まずそう言った。呆然とした様子を踊り子は、 ウィスタリアの上から起き上がり、隣に立って自分の腕や脚、腹や背を触って確認し、答えた。

「えっと、特には無いです」

「そっか、よかった。あ、練習中断しちゃってるから舞台袖行こうか。

みんなごめんなー。練習続けてー」

 踊り子に怪我は無いと確認したウィスタリアは、立ち上がって周りの役者と踊り子に声を掛け、 すたすたと舞台袖へと向かう。踊り子も、ぺこりと頭を下げてから、震える脚で舞台袖へと入っていった。

 

 その日の練習が終わり、本番までの休憩時間の事。劇場併設の食堂で、ひとり食事をして居たウィスタリアの元に、 先程の踊り子とその友人とおぼしき二人の女性、あわせて三人がやって来た。

「あの、先程はありがとうございました」

 舞台に上がっていた時とは打って変わって、長い真っ直ぐな茶髪を背中に流している踊り子が、 ぺこりとウィスタリアに頭を下げた。ウィスタリアは手に持っていたブールを皿の上に置き、 噛みしめていた物を飲み込んでにっと笑う。

「そんな気にしないで。君に怪我が無かったんならそれで良いよ」

 大きな体に整った容姿、加えて地を振るわせるような低い声だけを取ると、近寄りがたそうに見える彼だけれども、 笑って明るくそう言う言葉からは善良さがうかがえた。

 そんな彼を見て、踊り子が言う。

「それで、よかったらお食事をご一緒しても良いですか?」

 ウィスタリアはきょとんとして答える。

「別に構わんけど、おれそろそろ食べ終わっちゃうよ?」

「え? あ、じゃあ、お邪魔でしょうか……」

 申し訳なさそうに縮こまる踊り子を見て、一緒に来ていた女性のうち片方、小柄で、 トパズ色のふわふわした髪を肩のラインで切りそろえている、その彼女が明るい声でウィスタリアに話しかけた。

「構わないんだったら、ちょっと一緒にお話しよ? あたしたちがごはん食べ終わるまでさ」

 残りのひとりの女性、女性にしては背が高くしっかりした体つきで、 藍色の髪を編んで結い上げている彼女も話しかけてきた。

「友達の事を助けてくれた人とは仲良くなっといていいかなって。私からもお礼を言うよ」

 二人の言葉を聞いたウィスタリアは嬉しそうに返す。

「そう? それじゃあ席空いてるから座りなよ。おれ、おしゃべりは嫌いじゃないよ?」

 席を勧められ、女性三人が椅子に座る。それから、先程の踊り子が訊ねてきた。

「ところで、あなたはウィスタリアさんで良いのかしら?」

「ん? なんでおれのこと知ってるの?」

 ブールを手に持って千切りながら、ウィスタリアは不思議そうな顔をする。それをみて、 女性三人はくすくすと笑っている。藍色の髪の女性が言うには、 このオペラ座を取り仕切っている音楽院に所属する女性歌手や踊り子で、 ウィスタリアを知らない者は居ない。との事だった。ウィスタリアは、 そう言う物なのかなぁ。と思いながら千切ったブールを口に運ぶ。ブールを噛みしめて飲み込んで、 今度はウィスタリアが女性達に訊ねた。

「ところで、よかったら君たちの名前を知りたいんだけど、いいかな?」

 その問いに真っ先に答えたのは、小柄な女性。

「もちろん。あたしはベルっていうんだ。よろしく」

 次に答えたのは、藍色の髪の女性。

「私はハーモニーオ。よろしくね」

 最後に名乗ったのは、茶髪の踊り子だ。

「私はプルミエールと言います。以後お見知りおきを」

 三人が名乗ったところで、ウェイトレスが注文を取りに来た。三人が食事の注文をし、 ウィスタリアも少し物足りない感じがしていたのでつまめる物を追加で注文した。

 

 あの後、ウィスタリアと、プルミエールとハーモニーオとベル、 この四人でテーブルを囲んで談笑した。夜の公演が終わった後、ウィスタリアは暗い部屋の暖かいベッドの中で、 ぼんやりとその事を思い出していた。

 友達は居るには居るが、その数は少ない。今まで友人の少なさで悩んだことは無かったけれども、 改めて複数人でおしゃべりをしながら食べる食事というのは、なんて楽しいものなんだろう。しみじみとそう思った。

「また、一緒におしゃべり出来るかなぁ」

 そう呟いて、楽しい気持ちを反芻しながら、その日は眠りについた。

 

†next?†