第四章 悪魔の洞窟

 すっかり人里離れ、ふたりは砂漠を歩く。たまにオアシスのほとりに村があったりはするけれども、一日歩いたくらいでは次の村に着かないことも多くなってきた。
 何日も野宿をした末に辿り着く村で、水と食糧の補給をしながら道を行くけれども、だんだんと不自由なことが出てきた。
 それは、宿がないということではない。東へ進めば進むほど、言葉が通じなくなっていくのだ。今のところはウィスタリアが機転を利かせて身振り手振りで意思疎通をしているけれども、それもどこまで通じるかわからない。外の世界をほとんど知らないルカはもちろん、見知らぬ土地に慣れているウィスタリアでさえ、不安を感じずにはいられなかった。
 今日も村らしき所には辿り着けなかった。周囲には大きな崖があり、よく見るとその一ヶ所にぽかりと穴が開いていた。
 ルカが疲れで震える手でそこを指さす。
「今日はあそこで休みましょう。
あそこならきっと、風が避けられます」
 砂漠は朝夕と昼間の寒暖差が大きい。陽の出ていない時間に冷たい風に吹かれて体調を崩すと困るので、なるべく風を避けられる所で休みたいのだ。
 穴の入り口をウィスタリアがぢっと見る。入り口は風化していて、特に焚き火の跡とかは無さそうだ。
「それじゃあ、とりあえず中に入って様子見ましょうか。
盗賊とかの住処じゃないかどうか確認しないと」
 日が暮れ始め真っ暗に見えるその穴に近寄り、ウィスタリアが中を覗き込む。奥まで目を凝らし、耳を澄ませる。人の気配はない。
「多分大丈夫。中に入りましょう」
 ウィスタリアはそっとルカの手を取って穴の中に入る。風をしのぐのに良さそうな奥行きのある洞窟だ。ふたりとも壁際に腰を下ろし、手探りで干し肉と水をすこしずつ口にする。それから、先日村を出てから疲労困憊といった様子のルカを寝かし付け、しばらく誰も来ないかどうか様子を見てから、ウィスタリアも眠りについた。

 翌朝、洞窟の中に差し込む陽の光でウィスタリアは目覚めた。傍らでは、ルカがまだぐっすりと眠っている。余程疲れていたのだなと思いながら、長く伸ばしている真っ直ぐな黒い髪を撫でる。随分と砂埃がこびりついてしまっている。
 どこか沐浴できるところに早く辿り着きたい。そう思いながらウィスタリアは自分の髪にも指を通す。歌手をやっていたときは鮮やかだった、癖のあるサックスの髪も、だいぶ色がくすんでいる。
 ふと、ルカがもぞりと動いた。どうやら目を覚ましたらしい。
「おはよう」
「おはようございます」
 欠伸をして伸びをしてと身体を動かしていたルカの表情が突然強張った。何かと思いウィスタリアは視線の先を辿る。そこには、色鮮やかな色彩で、おそろしい形相をした人型の何かが描かれていた。
 ルカが引きつったような悲鳴を上げ、ウィスタリアの腕にしがみつく。
「あ……悪魔だ! 悪魔の絵だ!」
 悪魔の絵。そう言われてウィスタリアも血の気が引く。ここが安全なようならもう一日ここで休んでいこうかとも思っていたけれども、ふたりは慌てて荷物をまとめてその洞窟から飛び出した。

 また砂漠を歩き始めて、先程の悪魔の絵が余程こわかったのだろう。ルカがずっと、ウィスタリアの服の裾をしっかりと握ってそのままになっている。
 いつもは自分が頼りにしているルカがこんなふうに頼ってくるなんてと少しこそばゆい気持ちになる。
 ふと、あらためて先程の悪魔の絵を思い出す。ルカはこんなに怯えているけれども、思い返せば思い返すほど、ウィスタリアにはあの絵が安心するようなものに感じられるのだ。その理由はわからないし、まさかルカに訊くわけにもいかない。不思議に思いながら、風に吹かれて歩みを進めるのだった。

 その日の夕暮れ時、ようやく次の村にに辿り着いた。砂漠を抜け始めてから久しぶりに見る規模の、人や家の多い所だ。
 とりあえず宿を取ってゆっくり休みたい。そう思ったふたりが村の中を見て回ると、所々に不思議な姿の像が置かれている。食べ物や香が前に置かれていたり、村人が手を合わせ頭を下げているのを見て、何か大切な物なのだろうというのはぼんやりと伝わってきた。
 もはや言葉の通じないその村で、何かの交渉をするのはウィスタリアの仕事だ。言葉が通じない不安からか、一歩下がって隠れがちになっているルカに変わって、身振り手振りで交渉をする。
 正直なところ、うまく交渉できているのかはウィスタリア自身にもわからない。けれども、なんとか宿は見つけられた。
 宿の食堂で見慣れない料理を食べ、部屋のベッドに横になる。
「うう……体洗いたい……」
 ウィスタリアがべとつく髪を弄りながらそう呟くと、ルカも頷いてこう返す。
「そろそろ髭も剃りたいですしね……
明日の朝、この村のどこでなら沐浴できるか村の方に訊ねましょう」
「そんな複雑なやりとりできるかなぁ?」
「ああ、ほんとうにそれですよ……」
 そんなやりとりの後、ルカがはっとしたようにこう言った。
「あの、これで無事にチャイナに着いたとして、目的を果たすための意思疎通ってできるのでしょうか?」
 たしかに、そこは不安な部分だ。だけれども、ウィスタリアはぼんやりと考えを巡らせて返す。
「チャイナには海の方から色々な国の貿易船が行ってるはず。
だから、貿易のために、おれたちと言葉の通じる人もいるでしょう。
いるんじゃないかなぁ。
多分いると思う。
ま、ちょっとは覚悟しておきましょう」
「ふ、不安……」
 不安を抱えながらも、疲れには抗えない。ベッドの掛布はそんなに上等なものではなかったけれども、人里で休めるという安心感からか、ふたりともすぐにぐっすりと寝入ってしまった。

 翌朝、朝食の後になんとか沐浴できる場所を村人に教えて貰い、久しぶりに体を洗い髭も剃り、さっぱりしたふたりは、村の広場でフィドルの演奏をしていた。この周辺で使えるお金が欲しいというのは勿論あるのだが、長い砂漠の旅路で鬱屈としたものが溜まってしまっていたのでそれを発散させたかったのだ。
 フィドルを弾いているのは、旅の間弾き方を教わったルカ。その音色に合わせてウィスタリアが歌う。
 この村の住人からすれば聞き慣れない異国の調べなのだろう。すぐに人だかりができて、演奏が終わると歓声が上がった。
 だけれども。あまり裕福な村ではないためか、路銀はそんなに集まらなかった。

 

†next†