ここはある街に有る修道院。 私がこの修道院に修道士見習いとして入ったのは二年前の事。あと一年、見習いとしての修行を積めば、 私も修道士になれる。そんな時の出来事だった。
ある良く晴れた日の昼間、私は規則正しく並んだ木々の間を、如雨露を持って歩いていた。
自分よりも背の高い植木。その間には香草や薬草が植えられた畑がある。苗一つ一つに水を差し、 痛んでいる葉が無いかどうかを確認しながら、俯いて歩いていた。
時折枯れた葉を摘みながら畑を歩いていたら、ふと異変に気がついた。
この畑は、こんなに広かっただろうか?
慌てて顔を上げ歩いてきた方を見やると、地の果てまでも続く畑と植木が目に入る。
一体何事だろう。背筋を走る痺れと口の中に広がる苦みを感じながら、恐る恐る振り向く。
すると、畑の端と、見覚えの無い大きな木が目に入った。鏡の様に光を照り返している葉を付けた大木。 この街から出た事のない私には見た事の無い物であったし、書物などでいろいろな事をご存じの修道士からも、 聞いた事の無い物だった。
「突然お招きしてしまって、ごめんなさいね」
優美な声でそう声を掛けてきたのは、大木の下に佇む女性。この修道院の物では無いが、確かに彼女は、 修道女の服を着ていた。
私は戸惑った。
この見慣れた風景の中に現れた異質をどう捉えれば良いのか、わからなかった。
如雨露を抱えたまま足を震わせる私に、彼女は言う。
「私は『鏡の樹の番人』と言います。
実は、あなたにお願い事があって、ここに来て貰ったの」
「私に、お願いですか?」
一体何なのだろうか。少し考えて、彼女は私に力仕事を頼みたいのだろうかと思ったのだが、彼女が女性だとしても、 私の様な子供よりは体力があるのでは無いかとも思った。
彼女は静かな足取りで私に歩み寄り、そっと頭を撫でてくる。
「あなたには天の使いとして、この街に蔓延る悪い物を、少しでも退治して欲しいの」
「天の使い、ですか?」
天の使いの話は、私も聞いた事が有る。
いつの頃からかこの街には、悪人を懲らしめる正義の味方が現れるという、そんな話が囁かれている。それが天の使いだ。
天の使いは、常に子供の姿で現れる。それは、天から使わされた天使様が、そう言う姿なのだろうと言われているのだが、 まさかこの様な形で子供に任を任せていたとは、驚きだ。
……彼女の言う事が本当であるのなら。
「お願い、聞いて下さる?」
彼女は、私をここに招いたと言った。つまり、彼女の力なくして、私は修道院に帰る事は出来ないのだろう。
嘘か誠かはわからないが、ここは彼女の頼みを受け取って置いた方が良さそうだ。
「わかりました。
私ごときでは力及ばない事もあるでしょうが、努力します」
彼女の目を見据えそう言うと、彼女は腰に下げている袋から、暗赤色の石を十一個連ね、 留め具の先端に真鍮色のメダイを付けたロザリオを取り出した。
「ありがとう。
それでは、これをいつも身につけていてね。
これに祈りの言葉を掛ければ、あなたは天の使いの力を使えるようになります」
そう言われて受け取ったロザリオは不可思議な雰囲気を纏っていて、もしかしたら、 本当に天からの使命を受けたのでは無いかと、そう感じた。
「フェリーチョ……エスタス……デ、ディヴィーガ……?」
なんとか修道院へと帰ってこられた私は、休憩時間、人目の無い所で暗赤色のロザリオを片手に、 彼女……鏡の樹の番人に渡されたメモを読み上げていた。
このメモに書かれているのが祈りの言葉らしいのだけれど、どこの国の言葉だかが全く解らない。
……これを暗記しないといけないのか……
一見暗号にしか見えない文字列を、つっかえながら、偶に戻りながら何度か読み上げる。
何度かそれを繰り返し、なんとか一続きで読み上げる事が出来た。
「フェリーチョ エスタス ディヴィーガ ポル チヴィート」
すると、手に握っていたロザリオから眩い光が溢れだし、私の身体を包む。
それは一瞬の出来事で何が有ったのだかよくわからなかったけれども、何だか妙に足下が明るいので後ろを見てみると、 私の背中に、眩く光る翼が付いていた。
「へあっ! こ、これは一体どういう……?」
驚いて思わず変な声を出すと、視界に文字が浮かんできた。
『能力発動中』
目までおかしくなったのかと自分の顔に触れると、知らぬ間に顔の上半分を覆う、翼を模った仮面を被っていた。
自分に起こった異変に混乱しながら、私は修道院の中を走り回り、 いつもお世話になっている老齢の神父様の元へと駆け込む。
「神父様……神父様……!」
「やぁ、どうしたんだい?
……本当に何が有ったんだい?」
見慣れない姿になった私を見て驚く神父様にすがりついて、言葉を詰まらせながら事情を説明すると、 神父様がこう仰った。
「うん、そうか。
君も選ばれてしまったんだね」
「君も、と言う事は、私以外にも天の使いになった方が居るのですか?」
不安が消えない私に、神父様はこう説明してくださった。
いつの頃からかこの修道院からは、数年に一人、天の使いとして街を守る事を託される者が出るのだという。
それは女性だったり、男性だったり、その時々によって違うけれども、 皆誇りを持って正義の味方らしく人々を守っていたとの事。
「だから、安心なさい。
君も神に仕える者として、正義を全うすれば良いのだよ」
「神父様……でも、不安です」
情けない声で言う私の頭を撫でながら、神父様は優しく語りかけてくる。
「不安になってしまうのは、君の責任感の裏返しだよ。
大丈夫、神様はみていてくださる。
それに、後ろを見てご覧」
言われるままに、私は後ろを振り返る。
すると、何人もの修道士の方々が集まってきていた。
「これ、もう後戻り出来ないよね?」
「ですよね」
私が天の使いになった事を、知られてしまった。
尾ひれ背びれを付けておもしろおかしく語るような方々では無いだろうけれども、 この話は下手したら修道院中に広がってしまうなと、思わずうなだれた。