第一章 聖史の場合

 冬の寒さも和らぎ、冷たい空気に差し込む日差しからは暖かさを感じる様になった頃。

大日本帝国総理大臣である新橋聖史は、国会議員で有り大学時代からの友人の岸本と、 たまの休日に喫茶店でお茶でも飲もうと、紅茶専門店を訪れた。

 白を基調とした、所々アンティーク品等が置かれた店内。その中に有る二人がけのテーブルに通される。

席の脇に立ち、深く被っていたつばの広い帽子を外し、 ベージュのコートを脱ぐ。それから木の皮の様な物を編んで作られている椅子に腰掛け、 聖史は岸本と向かい合ってメニューに目を通しながら、普段仕事の時は話せない、取り留めのない話をする。

 真っ白なテーブルクロスの上でメニューを開き、膨大な数の紅茶の中から一つ、飲みたい物を決める。

「岸本君は何頼むか決めた?」

「おういえ。まだだわ。俺話しながらメニュー決めるのって苦手なんだよな」

 岸本も手元のメニューをぱらぱらと捲りながら目を通し、これだという顔をして指を差す。

「これにするわ。前に来た時、アッサムにはミルクが合うって悠希君が言ってたし」

「あら?

あなた悠希とここに来たことあるの?」

 突然出てきた可愛い弟の名に、聖史は岸本の事を睨み付ける。

岸本はぎこちない笑みを浮かべて、男同士の話が有ったなどと弁解しようとしているが、 聖史の冷たい視線は変わらない。

ぎこちない空気が流れる中、麻のスーツを着たギャルソンが注文を取りに来たので、二人とも紅茶の銘柄を挙げる。

ギャルソンが去った後、岸本が話題を変えようとしているのか、聖史にこう話しかけてきた。

「そう言えばケーキとか頼まなくて良いのか?」

「ケーキ?

そうね、頼みたいのは山々なのだけど、近々美味しい物を沢山食べに行く予定があるから、 その時の為に節制しているのよ」

「へぇ、美味しい物」

 聖史の言葉を聞いた岸本は、どうやら料亭やレストランなどを連想した様で、 どの店に行くのかと訊ねたが、聖史の答えはそう言う物では無かった。

来月辺りに家族揃って親戚の家に行くから、その近辺で採れる野菜や果物、 特産品などの美味しい物を沢山買ったり食べたりする予定なのだという。

なるほど、縁のある所にお金を落とすのは良い事だと、岸本も言う。それから、 お勧めのお土産が有ったら買ってきてくれと聖史は頼まれたのだった。

 

 岸本と喫茶店に行ったあの日から数日。

聖史は職務をこなしながら、忙しい日々を送っていた。

いつも通りではあるけれど、どうやって野党との折り合いを付けるかという事に頭を悩ませる日々。

この日も、今後の指針についてどうするかという与党内会議をしていた所だった。

 突然、それは訪れた。

置かれている重厚な椅子でさえも軋みを上げる激しい揺れ。

背の低いテーブルは有るが、身を隠せる様なところが無いその会議室で、議員達は椅子から降りて床に屈み込む。

いつまで続くかわからない、不安を煽る大きな地震。

本当に響いていたのかはわからない、けれども皆が感じたその轟音が鳴り止んだ頃には、 豪奢な壁紙と重厚なカーテンに彩られた大きな窓のガラスに、一筋の罅が走っていた。

 

 その日から、聖史の総理大臣としての業務は過酷な物となった。

震源地である東北で、 大きな地震と津波によって住む所や家族を亡くした人々への必要とされる援助の手配をしなくてはならなかったし、 それに加え、今まで日本国がクリーンなエネルギーとして普及を進めてきた原子力発電所が、損壊したのだ。

 それらは、僅か数日で押し寄せてきた。

まず聖史が指示を出したのは、陸海空軍を被災地に派遣し、行方不明者を捜索すること。

そして次に出した指示は。

「内閣総理大臣として命じる。

この度の震災、特に原子力発電所に関する情報を民間放送局が発信する際、言論統制を行う」

 この命令に、反対する者も居た。

しかし聖史は折れない。

何故言論統制を行うのか、その理由はこう言った物だった。

 第一に、民放による不必要な取材の為に、 行方不明者を捜索する軍の行為を妨害されることが有ってはならない。 これは先の阪神淡路大震災の際に学んだことで有る。

 第二に、民放による取材不足や不確かなものを根拠とした情報発信で、 現場に居る人々及び全国民に必要以上の不安を与えることが有ってはならない。

 第三に、間違った情報で被災地の人々を貶めることが有ってはならない。

 本来なら言論統制など、やりたくはない。

けれども、聖史は国民やメディアの中には、愚かな人種が多数存在することを知っていた。

その愚かな人々から国民を守るのは自分の仕事で有り使命なのだと、聖史は固い決意を胸に抱いていた。

震災から数ヶ月後、言論統制をしていると言う事がネットで囁かれ、聖史の元には幾多の罵倒が届いていた。

その中でも、聖史は寝食を削ってでも対応を続けた。

 聖史自らが被災地に入るべきだという声も有る。しかし、未だ混乱が続く中、 聖史が被災地に入って何ができるだろうか。感情的になって被災地へ赴くことは簡単だ。しかし今は、 この場に居て各地へ適切な指示を出すことの方が有益で有る。

 聖史自らが原発事故現場へ赴くべきだという声も有る。しかしそれもまた、 適切な対処では無い。素人が迂闊なことを言うよりは、専門家が行う対処に任せた方が、適切に事を済ませられるだろう。

 ただひたすらに毎日情報を集め、分析し、聖史が、国が出来る対応を日々行い続ける。

 日を追う毎に背負う物が大きくなっていくのを、聖史は感じていた。

 

 ある日の昼休み時、広く閑散とした、どことなく暗く感じる食堂で聖史がお弁当を食べていると、 少し出汁の香りが強い天ぷらうどんを持った岸本が隣に座った。

「よう新橋、隣良いか?」

「構わないわよ」

 スーツに汁が付かない様にする為か、襟元にハンカチを挟んでうどんを啜る岸本と、 その隣でビニール袋から取り出した、丸ごと一本の塩もみきゅうりを囓る聖史。

「お弁当できゅうりが丸ごと一本出てくるとは、その光景は俺にとってショックな物だった」

「親戚が送ってきてくれたきゅうりなの」

 何故だか少し寂しげな顔できゅうりを囓る聖史に、岸本がこう訊ねた。

「そう言えばだいぶ前に親戚の家に行くって言ってたけど、急にこんな事になって行く暇無くなっただろ。 落ち込んでないか」

「そうね、もし私が忙しくなくても親戚の家には行けなかったわ」

「そうなん?」

「私の親戚の家、福島なの」

 聖史の言葉に、岸本はどう返して良いのかがわからない。

原発事故以降に風向きなどから算出された避難区域に親戚が住んでいたとしたら、そうで無くても、 今は福島に住んでいると言うだけで非難を浴びる時勢だ。聖史の親戚に対する心配は並々ならぬ物だろう。

 その時岸本は、黙々ときゅうりを囓る聖史の側に、黙って居る事しか出来なかった。

 

 夏の日差しも強くなってきた、久しぶりの休日。聖史は岸本に誘われて、日帰りのドライブへと出かけた。

念入りに日焼け止めを塗った身体に纏っているのは、いつものパンツスーツ姿からは連想しがたい、 細かい縦縞模様の入ったクリーム色をしたロングワンピース。

つばの広い帽子には、薄手の布で作られたコサージュが付いている。

 岸本も折角のオフまで堅苦しい格好をしているのは嫌なのか、丈が長めなモスグリーンのTシャツに、 紺色のカーゴパンツだ。

 高速道路に乗り、北を目指して走る。

暑い日差しの中、岸本が運転する黄色い軽自動車は、いくつもの県境を越え、数時間を掛けて福島へと入った。

 高速から降り、カーナビの案内に従い走る事暫く、閑散とした観光地らしき所へと辿り着いた。

 駐車場に車を置き、階段を登った所から見えたのは、青々とした木々に囲まれ、静かに風に吹かれている、 鮮やかな青色をした沼。

 聖史と岸本は、静かに沼のほとりへと続く階段を降りる。

少し前までなら、観光地として賑わっていた筈のこの沼だが、周囲には誰もいない。

沼の底でゆらゆらと揺らめく水草を眺めながら、聖史が口を開いた。

「私ね、小さい時にここで初めて手こぎボートに乗ったの」

「ああ」

「その時、一緒に乗ってたお父さんに、落ちたら浮かんでこられないぞって言われたの、今でも覚えてるわ」

「ああ」

 少し震える声でそう言った聖史は、帽子を深く被り直し、拳を握りしめて毅然とした声でこう続ける。

「日本国は、被災地は、特に福島は、今深く沈んでいる。でも、浮かんでこられないなんて言わせない。

私は負けない。絶対に」

 歯を食いしばって言われた聖史のその言葉に、岸本はポケットに入れていた手を出し、ぽんぽんと聖史の頭を叩く。

それから、こう言った。

「じゃ、美味しい物食べに行こうか」

 岸本の言葉に、朝から何も食べていなかった事を思い出した聖史のおなかが、小さく鳴った。

 

 聖史を助手席に乗せ、岸本はまたカーナビを弄り、車を発車させる。

そうしてまた暫く車に揺られて、通っている道は聖史にも見覚えの有る道だった。

なぜ岸本がこの道を知っているのか疑問に思ったが、大人しく車に揺られていると、簡易的な木の作りで、 震災の影響で建物が歪んだのか所々棒が立てられている、小さな野菜の直売所に着いた。

 この直売所は、聖史が親戚の家に訪れる時必ず買い物に来る店だ。

聖史は疑問を口にする。

「何で岸本君がここを知っているのかしら?」

「新橋のお母さんに聞いた。ここで売ってる桃、毎年楽しみにしてるんだろ?」

「……他人のプライベートを詮索するのは、良い趣味とは言えないわよ」

 そうは言っても、ここで買える桃を楽しみにしているのは間違いの無い事なので、聖史は棚に並べられた桃を眺め、 奥に有る部屋に声を掛ける。

すると、いつも店番をしているお婆さんが、奥から杖をつきながらやってきた。

お婆さんは嬉しそうな顔と声で聖史に話しかける。

「久しぶりに誰か来たと思ったら、聖史ちゃんじゃ無いか」

「うん、おばさんも久しぶり」

 久しぶりとは言う物の、聖史は視線を逸らし、帽子のつばで顔の上半分を隠してしまっている。

 そんな聖史に、お婆さんは桃を一個手に取りこう言う。

「聖史ちゃん、良かったらこの桃を食べていかないかい?

聖史ちゃんが良ければだけど」

 今まで自分が作った農作物に自信を持っていたお婆さんが、 自分の作ったものを拒否される事に怯えている。その事に聖史は気がついた。

聖史は帽子を脱ぎ、お婆さんに言う。

「食べていって良いのなら、戴くわ。

あと、桃を二個ときゅうりを五本、それとトマトを四個お願い」

 ここに来た時、いつも頼む品物と個数を伝えると、お婆さんはにこにことして果物と野菜を袋に詰めて聖史に渡し、 それ以外に一個、桃を手に取って奥へと入っていった。

 

 お婆さんが切ってきた桃を、直売所に置いてあった古びたパイプ椅子に腰掛けて、聖史と岸本が食べる。

うっすらとピンクがかったクリーム色の瑞々しい実は、囓ると果汁が溢れ出し、華やかな香りを口の中で放つ。

「うわ、美味い。桃って山梨だとばっか思ってたけど福島のも負けてないな」

「お兄さん、気に入ったかい? 良かったらもっと切ってくるよ」

「いやいやいや、あんま切って貰うのも悪いんで、もっと食べる分は買っていきますよ!」

 大きく切られた桃を口に詰めてもごもごしたまま、棚に並べられている桃を眺める岸本を見ながら、 聖史はデザート用のフォークで刺した桃を一切れ囓る。

「聖史ちゃん」

「はい」

 聖史の隣に座っているお婆さんが、聖史の頭を撫でながらこう言った。

「お仕事辛いと思うけど、わたしは聖史ちゃんの事を応援してるよ」

 その言葉は、今まで被災地の人を守り切れていないと、そう自分を責め続けていた聖史の心に、優しく響いた。

柔らかく甘い桃を囓る内、聖史の目に涙が浮かんできた。

それを手の甲で拭いながら、聖史は言う。

「まだ泣きたくない……

まだ負けられないのに……」

 心細そうなその言葉に、お婆さんは桃の乗せられた皿を聖史に差し出しながら言う。

「泣くのと負けるのは同じじゃ無いんだよ。

泣いて、スッキリして、また頑張れば良いじゃ無い」

 お婆さんに取り留めのない話をして泣き続ける聖史の事を、岸本は果物や野菜を選びながらそっと見守っていた。

 

 直売所で話をして、買い物をして、東京に帰る頃にはとっぷりと日が暮れていた。

渋滞して赤いテールランプが明滅する首都高で、 聖史と岸本はお婆さんが揉んでくれた塩揉みきゅうりを囓りながら話をしている。

「私、福島は好きだけど、福島の全部を知ってる訳じゃ無いの」

「どの辺の事知ってんの?」

「親戚の家と、あの直売所。それから杉沢の大杉。合戦場のしだれ桜と五色沼くらいかしら」

 それだけ話して、暫くきゅうりを囓る音とエンジン音、それにクラクションの音だけが響く。

少しの事しか知らないのに、守りたいなどと言うのはおこがましい事なのでは無いか、聖史はそう思ったが、 きゅうりを一本食べ終わった岸本が空いた袋を聖史に渡し、ハンドルを握り直してこう言った。

「お前はお前の気持ちを信じろ」

 聖史はきゅうりから抜けた水分が溜まっている袋の口を結び、自分の分の残り少ないきゅうりを口に詰め込み、 噛みしめた。

 

†next?†