第九章 匠の場合

 とある大学の語学科に通う、一人の女子大生。新橋匠は、今日も様々な言語を学ぶ為に大学に来ていた。

午後いちに有るはずだった古典の授業が休講になってしまったので、同じ学校に通っている文学科に通う、 中学時代からの友人である篠崎ローラと食堂でペットボトルの紅茶を飲みながら談笑している。

「そろそろ、卒論の事考えなきゃね」

 匠が髪の毛を丸めてお団子を結い直しながらそう言うと、 ローラは首の横に二本垂れている緩い太めの三つ編みを手で弄りながら答える。

「卒論の事は四年生になってからでも良い気がするけど、確かに三年のうちからある程度地盤固めた方が良いよね。

テーマどうしようかな……」

 そう言ってから、文学科で古典を専攻しているとは思えない様な、ルーズに首元の開いたセーターと、 そこから少し覗くホットパンツから伸びる足を何度も組み替え、ローラは右手の人差し指でこめかみを押す。

そんなローラを見ながら、匠もフリルがあしらわれた春色のブラウスを揺らし、頭の後ろで指を組む。

匠も、正直言ってしまえば卒論の準備は四年になってからでも良いのでは無いかと思うのだが、 小説家をやっている兄の悠希が常々、締め切り厳守。と言って早め早めに作業をして居るのを知っているので、 早めに手を付けるに超した事は無い気がしたのだ。

 ふと、ローラが周りを見渡し始めた。

「どうしたの?」

「匠、テーブルの下に隠れて!」

 いきなり何を言い出すのだろう。そう思いながら匠がローラと共にテーブルの下に隠れると、床が揺れ始めた。

座っていた椅子が倒れ、床を滑る。

ペットボトルは、運良く咄嗟に手に取って居たので、中身が零れると言う事にはなっていない。

悲鳴が響き渡る中、テーブルの下で本当に響いているかどうかもわからない轟音を聞きながら、揺れが収まるのを待つ。

キュロットスカートの裾を掴んでくるローラの手を握っていると、次第に揺れが収まっていった。

 

 揺れが収まってテーブルの下から出た匠とローラ。

「匠、ほんとに大丈夫? もう大丈夫?」

 涙目になって匠の腕にしがみつくローラの肩を叩いて、宥める。

「もう揺れてないから大丈夫。

まぁ、なんだろう。惨状ではあるけど」

 そう言って見渡した食堂は、椅子が転がり、購買の棚の上に置かれていたお菓子などが床に散らばっている。

ふと、匠の目を引いたのは。購買のガラスケース入った、一筋の罅だった。

 これはとんでもない地震だったのではと、匠は思う。

すかさず、テーブルの上に転がっている、教科書とノートの詰まったハンドバッグからスマートフォンを取り出して、 メールを作成する。

兄の悠希の安否確認をする為だ。

メールを打ちながら、ローラも家族の安否確認はしなくて良いのかと訊ねる。

するとローラも、自分の重いトートバッグからスマートフォンを取り出して電話をして居る。

メールを打ちながらローラの話を聞く限り、ローラの家は無事な様だ。

匠はメールを送信し、またメールの作成画面を開く。

「ローラ、そっちまだ安否確認に時間かかりそう?」

「え?あと、今住んでる叔母さんの家と、あとお兄ちゃんかな?」

 それを聞いて、匠はメールアドレスの設定をしながら言う。

「それじゃあ、ステラと睡の方にはこっちから確認取っておくね」

「うん、よろしく」

 ステラと睡と言うのは、匠とローラの中学時代からの友人だ。高校時代は匠とステラが、 ローラと睡が同じ学校だったが、今ではステラは社会人になり、睡は別の学校に通っている。

そっちは無事? こっちは私もローラも何とか無事だよ。と言った文面のメールを送る。

それから、叔母との安否確認が終わり兄にメッセージを送っている物のなお不安そうなローラの手を握り、 匠は兄の悠希からの返信を待ちつつ家に連絡を入れた。

 

 結局その日は大学の講義が全て中止になり、匠達は早々に家に帰る事になった。

家に帰った匠は、早速先程の地震の規模を知る為にテレビを付ける。

そこに映し出されたのは、押し寄せてくる海の映像。

船も、車も、家をも押し流すその映像に、匠は呆然とする。

匠が安否確認をした知り合いは全て、無事だった。

けれども遠い震源地、東北には、圧倒的な悲劇が押し寄せてきていた。

 そして、海の画像から切り替わり、今度は現在の日本国首相、新橋聖史総理が。匠の姉が映し出され、 非常事態宣言をする。

気のせいか、気のせいだろう。けれども匠の耳には、運命の輪が嗤う声が聞こえた。

 

 それから数週間、匠自身は今まで通りの日常に戻っていた。

時折、悠希に電話をかけて話をしたりもしているのだが、その時に悠希が、 自分に出来る事をやるしか無い。と言っていたのが頭から離れない。

匠も、本来ならボランティアなりした方が良いのだろうが、そんな心の余裕が無かった。

 沈んだ顔で食堂でお弁当を食べる匠に、隣に座るローラがこう言った。

「そう言えば、匠はあの話知ってる?」

「ん? どの話?」

「新橋総理が、言論統制と報道規制掛けてるって話」

 それを聞いて、匠は身を固まらせる。

ローラから今聞いた、言論統制の話は、インターネット上で散々論議されているのを知っていた。

「知ってるけど、それがどうかした?」

 敢えて気にしていない風を装いそうローラに尋ねると、ローラは少し怒った様な顔をして話を続ける。

「正直、あれはどうかと思うのよね。

一度言論統制や報道規制をしたら、どんどん規制が厳しくなる可能性が有るもの。

新橋総理は戦中みたいに、日本国民を洗脳するつもりかしら」

 その言葉に、匠は語気を強くして返す。

「そんな事無い。洗脳する気なんて、有るはず無い」

「そうは言ってもさ……」

 匠になお言い聞かせようとするローラの言葉を切り、匠が言う。

「ローラには話してなかったけど、新橋総理って、私のお姉ちゃんなの」

 潰れるのでは無いかと言う程強くペットボトルを握りしめ、涙混じりで言われたその言葉に、 ローラは流石に申し訳なさそうな顔をする。

その様子に気付く事も無く、匠は言葉を続ける。

「お姉ちゃんだって、本当は言論統制なんてしたくなかったと思う。

小説家をやってるお兄ちゃんの邪魔になるような事、お姉ちゃんが半端な覚悟でやる訳無いもん」

 気がつけば、目からぼろぼろと涙が零れている。

何度もしゃくり上げながらペットボトルを握っている匠に、ローラがハンカチを差し出しながらこう言った。

「ごめん、でも、こう思ってる人が居るって事も知ってて欲しいんだ。

そうだ、今日午後空いてるよね?

ちょっと一緒に来て欲しい所が有るんだけど、良い?」

 ローラの言葉に、匠は涙を拭って一緒に行くと、そう言った。

 

 学校を出た後二人が訪れたのは、ローラの家の近くにある公民館だった。

そこでは、段ボール箱の整理をしていた。

段ボール箱の中身は、サイズ毎に分けられた新品の衣類や、毛布、使い捨てカイロ、缶詰、生理用品等の支援物資だ。

自治体が政府の指導書通り、被災地に送る支援物資を仕分けるのだが、そのボランティアをしている所だという。

 ふと、仕分けをしていた人の中から、長袖の白いセーターにジーンズを穿いた、見覚えの有る女性が声を掛けてきた。

「あ、ローラと匠も来たんだ。お疲れちゃん」

 そう言って駆け寄ってきた女性、匠とローラの友人の睡は、早速仕分けの手順を聞くよう、 ボランティアのグループリーダーを紹介する。

こうして匠は、初めてボランティアという物に参加したのだった。

 

 その日のボランティアが終わって、三人は近くの喫茶店でお茶を飲みながら話をし、偶に笑う。

話の中で、ローラが作業中は外していた、プラバン製のブローチを取り出して他の二人に見せる。

「そう言えばこれ見てよ。

お気に入りのブラバン作家さんの新作買っちゃったんだ。

アンティーク風って言う事らしいんだけど、素敵じゃ無い?」

 そう言われたブローチは、菱形をして居て中央には宝石のイラストが描かれ、 その周りに白と金が混ざった様な色で細かいドットが打たれている。

表面がつるっとしたそのブローチを睡が手に取って見ている間に、匠がローラに訊ねる。

「可愛いブローチだけど、作家さんに直接お願いして作って貰ったの?」

 すると、ローラがはにかんで答える。

「ううん、よく行くセレクトショップでチャリティーイベントやっててね、そのチャリティーに出品されてたやつなの」

「チャリティーイベントかぁ」

 それを聞いて、匠ははたと思う。

自分もアクセサリーを作って販売しているし、その売り上げを義援金として送る事は出来ないか。

しかしすぐに思い直す。匠が作っているアクセサリーは、インターネットで販売もしているとは言え、 主にイベントでの販売で、 尚且つ売れ行きが良いと言う訳では無いので殆ど利益が無いのだ。それなら直接募金した方が効率は良い。

そう思って一瞬落ち込みかけたが、今日参加したボランティアの事を思い出し、出来る事は人それぞれだと、 そう思い直す。

まず匠に出来る事は何か、匠はそれを考えた。

 

 それから数日後、匠はとある駅ビルに入っている、とある小さなパワーストーン屋を訪れていた。

その店に居るのは、殆どの人には見えない筈の、けれども匠とその友人達には見える、 宝石を背負ったカエルを両肩に乗せた女性。

「ステラ、久しぶり」

「匠も久しぶりじゃ無い。

今日はどんなのが欲しいの?」

 棚に並べられている石を磨いていた匠の友人のステラが、早速匠にレジの側にあるテーブル前に据えられた、 客用の椅子を勧める。

しっかりとした作りの木の椅子に匠が座ると、ステラはテーブルの反対側に入り、匠の話を聞く。

 匠は、姉が総理大臣をやっていて今非常に忙しく、批難も浴びている。と言う事を、 言葉を詰まらせながらステラに話した。

「……それで、お姉ちゃんを応援できる様なお守りが欲しいの」

 それを聞いて、ステラが匠の頭をテーブル越しに撫でた。

「そっか。

ストラップが良い? それともブレスレットが良い?」

 姉の聖史のことを悪く言わないステラの態度に、匠は泣きそうになる。

けれどもそれをぐっと堪えて、ストラップを作ってくれと、そう言った。

 話を聞く限りだと、魔除けに水晶とオニキスが良いね。そう言うステラの薦め通り、匠は無色透明な、 けれども澄んだ輝きを湛えた珠と、対照的に何も移す事が無い、光を吸い込んでしまう様な、漆黒の珠を選ぶ。

数珠選ばれたその石を手際よく繋いでいくステラの手元を見ながら、匠が訊ねる。

「ステラは、今回の震災でなんかやれそうな事、やってる?」

 その問いに、ステラの手が一瞬止まる。

それから、こう言った。

「そうさね、仕事があるから気力の有る時にしかやってないけど、支援物資の仕分けのボランティアとか、偶にね」

「そうなんだ。実は私も、偶にやってるんだ」

「そうなん?

頑張ってるみたいだけど、学生の本分は勉強なんだから、勉強がおろそかにならない程度にするんだよ」

「大丈夫、ステラみたいに体力に余裕のある時しかやってないから」

 そう言って、匠とステラが笑みを浮かべる。

 あの日、ローラがボランティアに参加するのに誘ってくれなかったら、自分は本当に何も出来ず、 自分を責め続けていただろう。

匠は、自分の仲間達に、言葉には出せないけれども感謝していた。

 

 出来上がったストラップを聖史の元に送って暫く経ったある休日、匠のスマートフォンが音を立てた。

何かと思ったら聖史からメッセージが届いていた。

メッセージにはこう有った。お守りをどうもありがとう。これがあれば、辛くても乗り越えられる気がする。私は今、 この国の事だけで精一杯だけど、匠は悠希の事をよろしくね。そのメッセージを見て、匠は拳を握りしめる。

今まで、悠希とどちらが一緒に居るかで散々喧嘩した聖史が、自分に悠希の事を任せてきている。

余程忙しいのだなと言う気持ちと、自分の事をこんなに信用しているのかと言う気持ちがこみ上げてきた。

 匠はメッセージを返す。お姉ちゃんも大変だと思うけど、頑張って。お兄ちゃんの様子は、偶に私が見に行くから。でも、 お姉ちゃんも偶にはお兄ちゃんにメールしてあげてね。偶にとは言えメールをして欲しい、 と言うのは難しい注文だったかもしれないが、今は悠希を独占しようという気にはなれなかった。

聖史の仕事が落ち着いて、今は忙しいと言っている悠希の執筆も落ち着いて、そうしたら、 震災前に家族みんなで出かけようと言っていたのを、きっと実行しようと望みを掛けた。

 

それから一年。聖史は相変わらず国政で忙しいが偶には休みを取れる様になり、悠希の執筆もゆとりが持てる様になった頃、 匠は家族全員で親戚の家へと出かけた。

親戚の家は、今なお放射能汚染が心配されている福島にある。

けれども、会うのを楽しみにしているという親戚の家に、匠達は向かう。

県境をいくつも超え、北へと走る。

数時間高速道路を走った後は、一般道を往く。

曲がりくねった道を通り、辿り着いた親戚の家。

笑顔で迎えてくれた親戚に東京からのお土産を渡し、それからお墓参りをして。

お墓参りが終わったら、親戚の家でご馳走を振る舞われた。

好物の山菜の煮物や、おひたしや白和えを思う存分食べる匠。

おかわりはいっぱい有るからね。と言う言葉に甘えて、何杯もごはんを食べる。

隣では悠希が、ゆっくりと、しっかり味わい、噛みしめがら食べている。

その更に隣では聖史が根菜の煮物や塩もみきゅうりを食べているのだが、ふと、涙を零した。

「お姉ちゃん、どうしたの?」

 匠がそう訊ねると、聖史は泣きながら言う。

「また、こんな風にみんなでご飯を食べられるのが嬉しくて、私もっと頑張らなきゃって思って……」

 いつもは気丈な聖史が泣きながらご飯を食べているのを見て匠は、みんなで少しずつ前に進もう。とそう言った。

 

†fin.†