第二章 悠希の場合

 新鋭作家としてデビューして二年目の小説家、新橋悠希はその日、 鮮やかな赤色をしたハーブティーをマグカップに満たし、口を付けながらパソコンに向かっていた。

統合失調症を患ってから十数年、家に籠もっている事が多い悠希だが、 家に居る時でも執筆や趣味のアクセサリー作りをする時は、気を引き締める為に、浴衣から着物と袴に着替えている。

その様子を悠希と同居している、幼なじみの宇宙犬の鎌谷は、 「犬の俺にはわかんねーな」と言いながらも職人気質の一片なのだろうと、かねてから眺めてきた。

 窓から差し込む光も柔らかさを持ち始め、これから暖かくなって穏やかな日を過ごせるのだろうなと、 悠希も鎌谷も思っていた。

 悠希がパソコンで小説の一節を書き、保存を掛けた所でマグカップの中が空になる。

新しくお茶を入れてこよう。そう思った悠希が立ち上がろうとした時にそれは来た。

始めは、少し大きいだけの、いつも通りの地震だと思った。

しかしすぐに様相を変え、背の高いパソコンラックを軋ませ、響いているはずの無い、 けれども確かに聞こえるその轟音の中、棚の上の物が暴れ始める。

「鎌谷君、危ない!」

 悠希は咄嗟に、窓際でくつろいでいた鎌谷を部屋の中心に敷いている万年床の上に移し、覆い被さる。

背中を、棚から落ちてきたクリアファイル、雑誌、アロマポット、薬の袋などが叩く。

 鎌谷を抱えたまま揺れが収まるのを待ち、静かになった部屋を見渡すと、ベランダに面した大きな窓ガラスに、 一筋の罅が走っていた。

 

「馬鹿お前、犬の俺より自分の事心配しろよ」

 大きな揺れのショックか、息を切らせながら発作止めの薬を飲む悠希に、 鎌谷がぶっきらぼうながらも心配そうな声を出す。

冷蔵庫に入れて置いた冷たい麦茶で薬を飲み下した悠希が、少し青ざめた顔に笑みを浮かべて鎌谷の頭を撫でる。

「だって、鎌谷君は僕の友達だもん」

 それから、震える手と腕で、鎌谷の事をまた抱きしめた。

自分の腕の中に収まってしまう程小柄な鎌谷を抱えたまま、呼吸を整える。

鎌谷の温もりを感じたまま息を吸って、吐いて。繰り返して気持ちが落ち着いてきた所で、インターホンの音が鳴った。

誰だろうと思いながらインターホンを取る。

「はい、どちら様ですか?」

「こんにちは。

美夏だけども、悠希さんと鎌谷君は無事?」

「部屋の中はごちゃごちゃになっちゃいましたけど、大丈夫です」

 突然訪れた同じアパートに住んでいる友人である美夏は、鬼気迫った様子で悠希にこう指示を出した。

まず、バスタブに溜められるだけ水を溜める事。それから、食料の確認。もし米があるのなら、 炊けるうちに炊いて置く様に。そう言った物だった。

 美夏と悠希がインターホン越しに話している間にも、着信音とおぼしき電子音が聞こえてくる。

「それじゃあ悠希さん、その辺の事よろしくね。私は呼び出しが掛かったから行かなきゃ」

「はい、お疲れ様です」

 そう言って受話器を置き、悠希は早速バスルームに行き、バスタブに栓をして蛇口をひねる。すると、 蛇口から出てきたのは赤茶けた水だった。

徐々に溜まっていく、鉄錆の混じった水を見て恐怖を覚える。

竦む脚を何とか動かし、台所に有るシンクの下を確認すると、そこには先日買い溜めたばかりの犬缶、それから、 普段は余り食べないが米がいくらかある。

悠希自身は普段液体栄養缶を飲んで食事を済ませているのだが、もし鎌谷用の犬缶が無くなった時の為に、 冷蔵庫に入れて置いた、ポットに入っている昆布のだし汁で米を炊く準備をする。

水道から出る水は鉄錆が混じっていて使えないので、米を磨ぐ事は出来ない。それでも、 無いよりはましだろうと炊飯器のスイッチを入れた。

 悠希が食料の確認と確保を済ませた所で、鎌谷が地震速報を見ようとテレビを付けた。

食料がある程度確保出来ている事で、少し落ち着いた様子の悠希も鎌谷を膝の上に乗せてテレビを見る。

するとテレビに映し出されたのは、押し寄せてくる海の映像。

船も、車も、家をも押し流すその映像に、悠希も鎌谷もただ呆然とするしか無かった。

 

 それから数週間後。

首都圏は電車などの交通機関も落ち着き、皆が普段通りの生活を送る様になった頃、 悠希は書き上がった新作のデータを持って、自分の本を出版している『紙の守出版』という会社の編集部へと赴いた。

 ビルのエレベーターで昇り、エレベーターのすぐ目の前、 所々塗装の剥げている鉄の扉の脇に付いている呼び鈴を押す。

 すると出てきたのは、髪の毛をふたつのお団子に結い、シンプルなタートルネックのニットとタイトスカート姿で、 首から水色のロザリオを下げた女性だった。

「新橋先生こんにちは。

今日は原稿のデータを持って来たんですよね?」

「そうなんです。

それと、ちょっと美言さんに相談があって……」

「相談、ですか?」

 美言と呼ばれたこの女性は、この出版社での悠希の担当だ。

元々悠希自身は締め切りに余裕を持って原稿を仕上げる質ではあるのだが、 美言にはプロットの段階でのアドバイスを貰ったり、本の装丁や、 それ以外の事、細々とした事の相談にも乗って貰っている。

 書類の積まれた机の並ぶ編集室を抜け、 一人がけのソファが向かい合わせに置かれている応接間へと入り、二人が腰掛けた所で悠希がこう言った。

「実は、僕が書いた本の売り上げの一部を、復興義援金として被災地に寄付して欲しいんです。

出来ません……か?」

 それを聞いた美言は、ロザリオの先端にぶら下がっている十字架を指でさすりながら答える。

「そうですね。

私個人の意見として言わせて戴きますと、義援金は新橋先生個人が、自分のお金で寄付すればと、そう思います」

 美言の言葉に、悠希は俯いて呟く。

「そうですよね。やっぱり、個人で出来る事からやらないと……」

 落ち込んだ様子の悠希だが、その呟きを遮って美言が言う。

「ですが、復興支援を我が社が表立ってやる事により、言葉は悪いですが、我が社のイメージアップ、 更には収益増も見込める様でしたら、検討しても良いかもしれません」

「美言さん……」

 確かに、美言の言う言葉をそのままに捕らえると、被災地を食い物にしていると捉えられる。

けれども、企業である以上、収益の見込めない物にお金を回す訳には行かないのもわかる。

悠希は美言の言葉を受け止めた。

 

 そうしている間にも他の社員が持って来たお茶を二人で飲みながら、話をする。

「それにしても、新橋先生だったら『被災地に祈りの千羽鶴を送ろう』 と言って鶴を折る作業でもするのかと思っていました」

 意外そうにそう言う美言に、悠希は苦笑いしてこう答える。

「いや、流石にそれは……

こういう時に必要になるのは、千羽鶴じゃ無くてお金だって言うのは、阪神淡路大震災の時に知りましたから」

「国の支援を待つのではいけないのですか?」

「国のお金も元々は僕達国民のお金だから限界があるし、日本国を運営するのに予算とかを決めている訳で、 国の支援だけを頼りにするのは不安かなって、思うんです」

「なるほど。

新橋先生が思ったよりしっかりした人でびっくりしました」

「今まで僕の事どんな目で見てたんですか?」

 暫くそんな話をして、悠希は美言に原稿のデータを渡して。

取り敢えず、被災地支援の件については後ほど悠希に結果を伝えると言う事になり、 悠希は紙の守出版編集部を後にした。

 

 それから数日後、悠希が次の原稿に取りかかるまでの間の日。

インターネットでアクセサリーの手作りブログを見ている時に、音声チャットの着信が入った。

音声チャットのIDは紙の守出版、つまりは美言の分しか登録していないので、 美言からの着信だというのがすぐにわかる。

「もしもし、美言さんですか?」

 悠希がマイク付きヘッドホンを被り通話を始めると、美言が先日の被災地支援の件について、 上層部からの決定が出たと言う。

どんな決定が出たのか、悠希は不安と期待を抱えながら美言の言葉を待つ。

すると、美言が言うにはこうだった。

「会議の結果、新橋先生の作品の収益から一部を、被災地支援に充てる事を許可すると言う決定が出ました」

「本当ですか!」

 体の弱い自分でも被災地の人達の役に立てる。そう思い喜ぶ悠希に、美言はただし。と条件を述べる。

 その条件とは、被災地支援の為に書き下ろしの小説を、文庫本一冊分書き下ろす事。

書き下ろしたその小説を本にして出版し、収益の一部を募金すると言う。

それからもう一つ。その本に関しては悠希の分の印税も減る事になる。

それでも構わないのなら、被災地支援を紙の守出版社として行うと、美言は言う。

 美言の言葉に、悠希は一瞬考える。

印税が減る事が嫌なのでは無く、問題は書き下ろし小説の納期だ。

納期について訊ねると、美言は特に納期は定めないが、定期的に書いて居る小説の納期に影響が無いようにとの事。

付け加えて美言はこう言う。

「納期は定めませんが、早く仕上がれば仕上がった分だけ、 早く支援が出来る事になります。これはお伝えしておきますね」

 冷たくも聞こえる美言の言葉に、悠希は手を握りしめて答える。

「……わかりました」

 震えているけれども決意の籠もったその返事を、鎌谷が悠希の座る椅子の後ろで耳を立てて聴いていた。

 

 その日から悠希は、小説二本分のプロットを立て始めた。

一本は定期的に出しているシリーズ物のプロットで、もう一本は被災地支援用のプロットだ。

片方に詰まったらもう片方を。それを繰り返し、徐々に内容を詰めていく。

寝る時間と起きる時間は普段通りだが、いや、 このペースが崩れると効率が悪くなるのがわかっているので普段通りにしているのだが、プロットに掛ける時間の割合が、 一日の中で多くなった。

パソコンから離れ、布団の側にあるちゃぶ台に二冊のプロットノートを広げ、 膝の上や周りには資料になる本を散乱させている。

 元々プロットを書く時は資料を見ながら書いているのだが、ここまで資料を散乱させている様を見たのは、 鎌谷も初めてだ。

そして、悠希は資料が散らかっている事に気付いていない。

 悠希が片方のプロットノートにしおりを挟んで閉じたのを確認した鎌谷が、すかさず悠希の頭を鼻で小突く。

「落ち着けよ。

そんな煮詰まった頭で突貫工事しても良いモンは出来ねーぞ」

「鎌谷君、でも」

「でもじゃねぇよ。

グダグダな状態で書いたって出来上がるのはグダグダなもんだってのは、お前だってわかってんだろ。少し休め」

 そう言って鎌谷が悠希の襟元を咥え、後ろに引っ張る。

すると、悠希もそれに釣られてそのまま後ろにある布団へと倒れ込んだ。

 天井を見る悠希の目に、涙が浮かぶ。

「でも、僕に出来るのはこれくらいだし」

 しゃくり上げて泣く悠希の頬に、鎌谷は鼻を押しつけて宥める。

「そうだな、お前に出来んのはこれくらいだな。

だから、頑張ってんのはわかっけど、無理すんのとベストを尽くすのは違うんだぞ」

 鎌谷が涙を舐めて拭っているのを感じながら、悠希は暫く泣き続けていた。

 

 それから一、二時間後。悠希も落ち着き一旦プロットノートを両方閉じてお茶を飲んでいた時の事。

誰かが悠希の部屋の呼び鈴を押した。

誰かと思いインターホンで出ると、同じアパートの同じ階に住んでいる友人の、カナメだった。

一体何の用なのかと、緊張しながら訊ねると、アクセサリーの製作依頼を受けたのだけれど、 その事で悠希に相談があるという。

悠希もカナメも、アクセサリー作りを趣味としている。

一緒に作業をした事もあるが、悠希はその時の事を思い出し、ふっと頬を染める。

 取り敢えずカナメに上がって貰い、悠希は慌てて万年床を畳む。

「ごめんね悠希さん、急にお邪魔しちゃって」

「ううん、大丈夫だよ。

今、丁度締め切りまで間がある時期だし」

 緑の長袖カットソーに生成りのワンピースを着て、スカート部分を不安そうに握っているカナメに、 悠希はちゃぶ台の側に座る様に勧める。

それから、はたと気付いた。ちゃぶ台の上にはプロットノートが置きっぱなしだったのだ。

「あの、悠希さん、やっぱり忙しかったんじゃ……」

「ううん、今丁度休憩してた所だから!

さっき鎌谷君にも休めって言われたから、今日はプロット練るのこの辺にしておこうかなって」

「そうなの?」

 不安そうなカナメを座らせ、プロットノートを慌ててパソコンラックに移した悠希は、冷蔵庫の中から麦茶を出し、 台所から持って来たマグカップ二つに注ぎ、片方を差し出す。

 それでようやく安心した様子のカナメと、アクセサリーについての相談の話をする。

何でも、アンティーク風のデザインのアクセサリーが欲しいと言われた様なのだが、 アンティーク風と言われてもカナメにはピンとこなかった様で、 アンティークジュエリーとはどんな物なのか。と言う相談に来たそうだ。

 カナメの話に悠希は、丁度アンティークジュエリーの資料があると言って本を何冊か取り出して見せる。

様々な宝石で彩られているアンティークジュエリーの写真を、悠希が解説しながら見る。

本を一通り見た後、 カナメが得意とするプラバン細工と9ピンワークでアンティーク風にするにはどうしたら良いかという案を二人で出し合い、 時折談笑する。

 楽しそうに笑うカナメを見て、悠希は少し気持ちが楽になった。

 

 それから二ヶ月後。

美言に助けられつつプロットの見直しを何度か繰り返し、小説の本文が出来上がった。

これから校正などが色々入るが、被災地支援の為の準備の第一段階が終わった所だ。

「じゃあ鎌谷君、美言さんの所に行ってくるね」

「おう、気をつけてな」

 データの入ったSDカードを持って玄関に立つ悠希。

その背中に希望を背負っている様に、鎌谷には見えた。

 

†next?†