第六章 円の場合

 春休みも近くなってきたこの季節、篠崎円が勤めるフォトスタジオでは、卒業前の記念にと、 写真を撮りに来る女子高生達が多く訪れていた。

このフォトスタジオでは、主にコスプレの写真の撮影を行っている。

勿論ポートレートも撮れるのだが、人目を気にせず、綺麗な背景も有るし、プロのカメラマンが撮ってくれると言う事で、 コスプレイヤーの顧客がだんとつに多い。

 この日も、卒業して学校がバラバラになる前にと、同じ学校のコスプレイヤー仲間という女の子の写真を撮っていた。

華やかな衣装に身を包む女の子達の写真を、脚立を使ったりしながら撮影していたのだが、ふと異変を感じた。

セット用の桜の枝が揺れているのだ。

危ない。円がそう思った時には床が激しく揺れ、背の低い脚立ごと後ろに倒れ込んでしまう。

咄嗟にカメラを庇い、尚且つ受け身も取った円は、撮影ブースに居る女の子達に言う。

「そこはライトが上に有るから危ない!

こっちに来て!」

 女の子達が何とか休憩スペースに辿り着くと、他のスタッフ諸共にその場に屈ませ、 せめてクッション代わりになればと備え付けのコートを掛けていく。

それが終わると、円もカメラを抱え込み、その場に屈む。

照明の揺れる音、セットの揺れる音、色々な小物が落ちる音、 それに響いているのか居ないのかわからない轟音が収まるのを、皆がその場でじっと待った。

 

 揺れが収まった後、結局先程撮影していた女の子達の撮影を続ける事は出来なくなったので、 今回取った分のデータは渡すけれども、また後日、改めて撮影しますと言う事になった。

その後も次々に入ってくるキャンセルの電話。

あれだけ大きい地震があったのだから、 キャンセルをするのは普通の対応だろう。そう思いながらキャンセルの電話を受ける店長を見ていた円が、 ふと、外の空気を吸って気分転換しようとスタジオの外へ出ようとした。

その時円の目に入ったのは、出入り口のドアに填められているガラスに入った、一筋の罅だった。

 

 改めて、大きな地震だったのだなと思った円。地震の恐怖を振り払うかの様に、 近所にある自動販売機で缶コーヒーを一本買い、一気に煽る。

ふと、ポケットに入っているスマートフォンが震え始めた。

何かと思ったら、友人からメッセージが来ていた。

大きな地震があったが無事か?との事だが、正直な事を言うと、このメッセージを送ってきた友人も食品会社勤務なので、 割れ物とかで怪我をしていないかどうか、こちらが心配だ。なので、こっちは無事に受け身が取れたが、 そっちは切り傷とか無いか?とメッセージを返して置いた。

 こんなやりとりをしてはいたが、円はこの時、この地震が深刻な物であるとはつゆにも思っていなかった。

 

 この日のスタジオの予約は全てキャンセルになってしまったが、一応閉店一時間前まではスタジオに居て、帰り際。

大通りは人で溢れ、駅からも人が溢れている。

電車は何とか動いている様だが、ダイヤは完全に乱れていて乗れるかどうかがわからない状態だ。

「あー……

まぁ、歩いても帰れるし、歩くか」

 そう呟いた円は、人で溢れる道路を歩き始めた。

 人波に揉まれながら歩いているうちに、もしかしたらさっきの地震は、とんでもない物だったのかもしれないと、 円はそう思い始めた。

家に帰ったらネットかテレビで確認しないと。

そう思いながら、鞄の中に入れて置いた固形栄養バーを囓った。

 

 一時間程歩いて辿り着いた古ぼけたアパート。円はここに住んでいる。

このアパートは妹が居候している親戚の家からも、職場からも近いと言う事で選んだ所だ。

大通りの人混みが嘘の様に、人通りが無く、暗い。

チカチカと明滅する蛍光灯の光を頼りに、円は自分の部屋の鍵を開け、中に入る。

真っ暗だった部屋に灯りを点け見渡すと、元々余り物を表に出しておかない質のおかげか、 そんなに散らかっては居なかった。

敢えて言うなら、仮面を被った少女の写真が入ったフォトスタンドが、本棚の上で倒れていたくらいだ。

その写真を見て、はたと思い出す。

「あっ、蓮ももう仕事終わってるよな。無事かどうか聞かないと」

 蓮というのは、円の恋人だ。

中学の時からの友人と同じ食料品会社に勤めていて、その友人が無事だったから蓮も無事だとうっかり思い込んでいたが、 確認は取った方が良いだろう。

早速スマートフォンを取り出し、メッセージを送る。

すると、数分おいて返事が来た。

『柏原さんの心配はするのに、私の事は今まで放って置いたんだ。

でもありがと。無事だよ』

 友人の柏原を優先させてしまった事に些か罪悪感は感じたが、暫く蓮とメッセージのやりとりをして。

どうやら蓮は会社に泊まる様なので心配になったが、柏原が一緒なら大丈夫だろうと、自分に言い聞かせる。

 蓮が会社に居るのに何時までもやりとりをしているのはまずいだろうと思い、おやすみ。とメッセージを送り、 やりとりを終了する。それから、パソコンを立ち上げてネットニュースに目を通していく。

トピックスに並んでいる記事は、今日の地震の事ばかりだ。

その中で、映像が見られる記事を見付けた。

映像を付ける程凄い被害が出たのかと、興味半分で動画を再生すると、そこに映し出されているのは、 押し寄せてくる海の映像。

船も、車も、家をも押し流すその映像に、円は呆然とするしか無い。

スタジオでカメラを抱えたまま受け身を取った時、なんて目に遭ったんだと思ったが、 それが如何にもちっぽけな事に思える様な悲劇が、ディスプレイに映し出されている。

恐怖か、それともその場に居なくて良かったという安堵か、どちら故かわからないが、 歯の根が噛み合わずカチカチという音がする。

 その日、円は夜が明ける頃まで眠る事が出来なかった。

 

 震災の日から暫く。円は自分に何が出来るかという事を考えながらも、日常に戻って行っていた。

スタジオの予約もまばらになり、暇な日が多いが、ここに通う事をやめたら、 立ち止まって動けなくなる様な気がしていた。

そんなある日、有るコスプレイヤーからこんな話を聞いた。

チャリティー用のコスプレROMを出すという。有志を募り、ROMを作り、 その売り上げを被災地に寄付するというのだ。

それが上手くいくかどうかは、円にはわからない。けれども、これがこの人達に出来るベストなのだろう。

 そのチャリティー用の写真の撮影を今回すると言う事で、事前にその事を聞いていた店長が、 ROMに使用する写真は料金が高くなりますが大丈夫ですか?と改めて訊ねている。

返事は即座に返された。構わない。と。

チャリティーに参加する写真なのなら、円としては通常料金所か無料で手伝いたい所だ。

だが、一件でも例外を出すと、なし崩し的にたかってくる質の悪い人達が居るのも解っている。

なので、円は何も言わず、料金に関しては店長に一任する事にした。

 

 それから数週間後。

円は一週間程休暇を取って、被災地へボランティアに来ていた。

一人でやって来た訳では無く、政府が募集して居たボランティアスタッフに応募したのだ。

 仕事は、津波で泥にまみれ、崩れた家屋の清掃。

大型バスに乗ってやって来たボランティアスタッフ達は、幾つかのグループに分かれ、 家の中の泥を掻き出す作業をしていく。

その中で、思い出の品と思われる物を見つけ次第バケツに溜めた水で洗い、 立ち会っている家主に渡していくのだ。

 この仕事は、日帰りだ。なので、昨晩からバスに揺られて疲れた身体で重労働をし、 日が暮れたらまたバスの中で眠りながら帰る事になる。

円はこの一週間で二回程、このボランティアに参加する事になっている。

 家の中の泥を掻き分け、壊れた家具を運び出していく。

その中で、円はある物を見つける。

楽しそうに笑い合っている、家族写真だ。

それを見て思わず目頭が熱くなるが、休んでいる暇は無い。

その写真も洗い、家主に手渡す。

すると家主は、嬉しそうに笑い、涙を零した。

 

 一回目の日程は、順調に終わった。

間一日は家でゆっくりと休養を取り、またすぐにあるボランティアへと体調を整える。

その合間に蓮から、無理はしないでね。と言うメッセージが届いていて、 円はそれを見て元気づけられる。大丈夫、上手くやってるよ。そっちも忙しいんだろ? 無理はするなよ。そう返し、スマートフォンのロック画面に設定されている蓮の写真を見て、微笑んだ。

 

 そして二回目のボランティアで、また重労働が続く。

泥を掻き分け、円はまた見付けた。この家の物とおぼしき家族写真だ。

これを渡せば、きっとこの家主は少しでも救われた気持ちになるだろう。そう思って、 色がまだらに剥げている写真を洗った。

バケツの中で丁寧に土を落とし、写真を引き上げ、思わず目を疑った。

うっすらと色の乗っていた形跡こそ有れど、一体何が映っていたのか全く解らない、白い紙になっていたのだ。

「これ……

インクジェット印刷だったのか……?」

 ショックだった。

家族の楽しい思い出を残していたはずの写真が、流れ落ちて。インクと共に紙の表面から思い出が流れ落ちて、 ただの紙切れになる。

 かつてデジタルカメラが出始めの頃、円は便利な物が出来たと、そう思った。

フィルムと違って自宅で好きな写真を好きなだけ刷れる。その事に喜んだ物だった。

フィルムのカメラも好きだけれど、これからはデジタルカメラが主流になって、 フィルムが衰退するのは仕方ないと思っていた。

けれども、この思い出が消えてしまった紙切れを見て、その考えは間違いだったのでは無いかと思う。

もしこの写真をフィルムで撮って、印画紙に写していたのなら、この思い出は消えずに済んだのかもしれない。

たられば、の話はしても無駄だ。それはわかっているのだが、円はやるせない気持ちをどうにも出来なかった。

 

 それから数ヶ月後、円は偶にボランティアで被災地の片付けの手伝いをしながら、 今まで通りの日常へと戻って行っていた。

そんな中、最近忙しい様子の蓮に会った日の事。

都内の海辺で、風に吹かれる波を見つめながら蓮が言った。

「私、海があんなに怖い物だって思ってなかったな」

 蓮が言っているのは、津波の事だろう。

普段余り海に来ない蓮や円は、あの日津波に町が呑まれるのを見るまで、 海はただただ楽しい場所で、憧れの場所だったのだ。

紺のスカートと、セーラーカラーのパフスリーブブラウスを着た蓮が、不安そうに円を見る。

如何にも初夏の海辺に似合う服装をした恋人が、海に怯えている。

円はそっと立ちすくむ蓮の肩を抱いて、こう言った。

「確かに海は怖い事も有る。

でも、海が俺達にくれる物だって有るんだ。

付き合い方次第だよ」

「うん……」

 しょんぼりとした声を出す蓮に、円は周りに人が居ないのを確認してから、そっとキスをする。

「俺とここに居るの、嫌?」

「……円さんと一緒なら、嫌じゃ無い」

「そっか」

 蓮の返事に、円は身体に付けていたボディバッグから、小さな黒い箱を取り出す。

何かと思った蓮がその箱をよく見ると、レンズが二つ付いていて、上部に付いている蓋が開く様になっている。

「あ、もしかして、二眼レフカメラ?」

 箱の横に付いているレバーを回す円に、蓮が微笑んで訊ねると、その通りと答える。

そのまま円は二眼レフカメラを構え、蓮から少し距離を取りながらこう言った。

「俺が写真撮るからさ、笑ってよ。

良い思い出を海と一緒に残そう。な?」

 円の言葉に、蓮は綻ぶ様な笑顔を見せ、それから意地悪そうな声で訊ねる。

「円さん、何でそんなに離れるの?」

「いや、このカメラピントの最短距離、一メートルなんよ。

ある程度離れないと折角の可愛い顔が綺麗に撮れないんだ」

「あれ?もしかして、フィルムカメラ?」

「おう」

 レンズの枠を回しつつカメラを上から覗き込む円に、蓮は不思議そうに訊ねた。

普段は便利だからと言ってコンパクトデジタルカメラなのに、何故フィルムカメラなのかと。

その問いに、円の答えはこうだ。

「いやぁ、こういう時の写真は、フィルムが良いなって思って」

「そうなの?」

 円の言葉を聞いて、蓮はまた笑顔を浮かべる。蓮も、普段風景写真を撮るのを趣味としていて、 その時に使っているのがフィルム式の使い捨てカメラなのだ。なので、 フィルムの写真に親しみや暖かみを感じていると前々から言っていた。

そんなフィルムカメラで、円が思い出を残そうと思ってくれている事が嬉しいのだろう。

 蓮が笑顔のままじっとしている事暫く、円は何度か箱の横のレバーを回している。

「ねぇ、円さん」

「おう?」

「そのカメラ、何時シャッター切ってるのか全然わかんない……」

「あ、ごめん!切る時は言うわ」

 撮るのに夢中になって、声かけを忘れるのは良く有る事。

けれども何時シャッターを切っているのかわからないと何時動けば良いのかがわからないだろうので、 円は声かけをしながら蓮の写真を撮った。

 

 日が暮れるまで円と蓮は一緒に過ごし、夕食を食べる前に、区内全域が見渡せると言う展望台に来ていた。

二人で夜景を見ながら、取り留めのない話をする。

「そう言えば円さん、冬に神戸で光の回廊が出来るイベントが有るのって、知ってるよね?」

「え?ああ、有名だから知ってる。

いつか写真撮りに行きたいなって思ってるんだけど」

「あれ、阪神淡路大震災で亡くなった人の慰霊の為に始まったんだって」

 蓮の言葉に、円はすぐに返事を返せない。

暫くお互い黙ったまま、テールランプが流れる道路を眺める。

「東北の人達は、どうやって慰霊をして、乗り越えるんだろうな」

「わからない。

でも、時間が掛かっても立ち直れるって信じたいし、応援したい」

 個人が出来る事は小さな事で。でも、それが集まれば、奇跡が起こるのではないか。

円はその奇跡を信じたかった。

 

†next?†