第七章 ネイルを塗るよ

 閉店直前、最後のお客さんがお店を出て行ったのを見送ってから、入り口のガラスのドアにCLOSEと書かれた札を下げ、店内の商品を整えはじめる。お客さんが見た後にも整えてはいるし、なんなら次の営業日の朝にも整えはするのだけれども、お店を閉めるときにもやっておくと朝に慌てずに済むのだ。
 壁際のハンガーを一個ずつ確認している間に、桐和にレジを閉めてもらう。本当はレジを閉めるのを店長の僕が、商品を整えるのを店員の桐和がやるのが良いのだろうけれども、なんせお金に関しては桐和の方が手慣れているのでこういう役割分担になっている。
 店内の服やアクセサリーを整え終わり、桐和が売り上げを帳簿に付け終わるのを見守る。桐和は時々目を細めて帳簿に書かれた文字を指でなぞったりしながら数字を書き込んでいる。
 すこしして帳簿を付け終わった桐和が、僕の方を向いてこう言った。
「そういえば店長、新しいネイルポリッシュを買ったので試させてもらって良いですか?」
「ネイルポリッシュ? いいよー」
「それでは、少々お待ち下さい」
 試させて欲しいというのは、つまりは僕の手を借りて、僕の爪にネイルポリッシュを塗りたいということだ。桐和は早速、作業場に置いた荷物の中から爪ヤスリやいつものベースコートとトップコート、それに初めて見るネイルポリッシュを出して来てレジカウンターの奥に立った。僕はレジカウンターの前に立って、両手をレジカウンターの上に乗せる。
「それでは失礼して」
 桐和はまず、僕の右手を取って爪ヤスリで僕の爪の形を整える。右手の爪全部を整え終わったら、次は左手だ。
 爪ヤスリが終わったら、右手の指から順番にベースコートを塗る。このベースコートは速乾性のものらしく、左の爪を塗り終わる頃には右の爪に塗ったものはほとんど乾いてしまう。手際が悪いと使いづらいものかもしれないけれども、手際がいい桐和が使うなら便利なものだろう。
 ベースコートが乾いたのを確認してから、桐和は新しく買ったという水色のネイルポリッシュを塗っていく。透明感のあるシアータイプだ。
 こうやって、桐和に手を貸してネイルをやられるのは珍しいことではない。ネイルポリッシュもジェルネイルも、桐和が試したいという時には手を物理的に貸すようにしている。ネイルをされて困ることはないし、むしろ逆にかわいくなるのでうれしいくらいだ。
「そういえば」
 ネイルポリッシュを塗りながら桐和が口を開く。
「先日、ネイリストの資格を取れました」
「そうなの? おめでとー!」
 桐和はこのお店に通いながらネイリストの学校にも通っていて、ネイリストの資格を取りたいと言っていた。それがようやく達成されたと訊いて僕もうれしくなった。
「うちのお店忙しいのに、働きながらよくがんばったね」
 僕がそう言うと、桐和はにこりと笑ってこう返す。
「受講の時や試験の時に、店長がシフトの融通をしてくれたおかげです。
店長の方こそ、僕のわがままをきいてくれて、お店をひとりでがんばってありがたいです」
「まぁ、ワンオペはたまにだし、僕は店長だからね。
なんなら、桐和がいない日はお店閉めちゃって生産にあてたりもしてたし」
「なるほど」
 そんな話をしている間に、ネイルポリッシュを塗り終わった。
 ネイルポリッシュが乾くのを待つ間、桐和がまた僕に話しかけてくる。
「そういえば、ネイリストの資格を取った理由、訊かないんですね」
 その問いに、僕は当然のように答える。
「あー、まあ、気にはなるけどあんまりプライベートに踏み込むのもよくないしね」
「それもそうですね」
 すこしほっとしたような顔をした桐和は、僕の右手を見て、ネイルポリッシュを重ね塗りしていく。多分、シアータイプだから一度塗りと二度塗りとで比較したいのだろう。
「そもそも、そこまで深い理由があって資格を取ったわけではないので、訊かれないと気楽ですね」
 僕の右手を取ったまま桐和がそう言うのを聞いて、僕は思わずくすりとした。
「なにやるにも理由が必要ってわけでもないしねー。
でも、なんとなくで資格取るなんて、ほんとにがんばったと思うよ」
「ありがとうございます」
 右手に二度目のネイルポリッシュを塗り終わった桐和は、蓋を閉めながらにこりと笑ったけれども、すぐに顔から表情を消す。これは時に機嫌が悪いとかそういうわけではなく、ただ単純に、桐和は普段表情に乏しいというだけのことだ。表情を変えることがすごく珍しいというわけでもないし愛想笑いもできるけれども、無表情な状態の方が楽だとは以前言っていた気がする。
 塗ったネイルポリッシュが乾いたのを確認して、桐和は仕上げにトップコートを塗っていく。これも手慣れたもので、表面がつるんとした質感に仕上がっていく。
「最近は乾きの早いネイルポリッシュも多くて楽ですね」
 トップコートを塗りながら桐和がそういうので、僕も昔のネイルポリッシュのことを思い出しながら返す。
「確かに、僕が中学高校の時はここまで乾きの早いネイルポリッシュってあまりなかったかも」
 僕の言葉を聞いて、桐和はすこしだけ驚いたような顔をする。
「店長、中学の頃からネイルをやってたんですか?」
「うん。学校が休みの日だけだけど。
でも、なかなか上手に塗れなかったねー」
「まぁ、はみ出さないように自分で塗るのは難しいですよね」
 それにしても。と、トップコートを塗っている桐和の手つきを見て思う。いつもきれいにネイルを塗ってくれるなとは思っていたけれども、ネイリストの学校に通いたいと言われたときは驚いたっけ。あの時、お店の仕事と両立するのは大変だからと止めなくてよかった。今になって本当にそう思う。
 トップコートを塗り終わった桐和が、乾くのを待っているのか僕の爪をじっと見ながらこう訊ねてきた。
「そういえば、店長は僕にネイルを塗られるのは嫌じゃないんですか?」
「え? なんで?」
「いえ、たまにスカルプチュアできときとにしたりするので、そういうときは作業の邪魔になってたりしないかと思って」
 たしかに、たまにスカルプチュアで爪を伸ばして尖らせることがある。今はもう慣れてしまったけど、はじめのうちは扱いに戸惑ったものだっけ。
 そんなことを思い出しながら、僕は言葉を返す。
「きときとにされるのははじめちょっと慣れなかったけど、今はもう慣れたし、むしろいつもかわいくしてもらってるから無料で良いのかなって思ってた」
 すると桐和は、いつもの澄ました表情でこう言う。
「なるほど。
でも、僕は練習も兼ねているので塗らせてもらえるとむしろ助かります」
「それじゃあ、これからも手を物理的に貸すから」
「はい、ありがとうございます」
 それから、トップコートが乾くのを待ってから、荷物を持って、電気を消して、桐和と一緒にお店を出た。

 家に帰る途中、電車に乗って最寄り駅について、これから晩ごはんの材料を買っていこうかなと駅前で足を止めて周りを見渡していると、突然声を掛けられた。
「あ、ミツキじゃん。今帰り?」
 その声に振り向くと、そこには通勤鞄を持ったサクラがいた。
「あ、サクラもおかえりー。
これからスーパーに寄って晩ごはんの材料買おうかなって思って」
 僕がそう返すと、サクラが僕の隣に並んでこう言った。
「それじゃあ、一緒にスーパー行こうよ」
「そうだね」
 ふたり揃っていつものスーパーに寄って買い物をする。
 ふと、ショッピングカートを押してる僕の手を見てサクラが声を掛けてきた。
「あ、今日もネイルしてもらったんだ。
かわいいー」
「えへへー、かわいいでしょ」
 サクラは案外、こう言う細かいところにも気づいてくれる。
 ネイルに気づいてもらえたのがうれしくて、ついサクラの好きなものを多めに籠に入れてしまった。

 

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