第十章 働かざる者

 強い日差しが降り注ぐようになった来た日の朝、僕は自宅周りにローズマリーの細くて細かい葉を撒き、 ヘンルーダの瑞々しい小枝で聖水を振りかけていた。

 何をしているのかというと、この家に悪しき物が寄りつかないように、清めているのだ。

 職業柄、そう言った物が寄って来やすいからと言うのも有るのだが、お父様の仕事柄、 嫉妬や怨念なども向けられることが有り、そう言った物がこの家に影響を及ぼさないように、 定期的にこう言う事をしている。

 お父様は、この大日本帝國の軍人だ。

 陸軍、空軍、海軍、その辺りの詳しいことは知らないのだけれど、お父様は今だ、軍の諜報部に勤めている。

 まぁ、軍に勤めていると言っても、人材は十分に居るし、普段はそこまで忙しい物では無いらしく、 大体の場合は余り遅くならないうちに帰ってくるし、休日もきちんとある。

 ただ、その待遇が、仕事の忙しいサラリーマンからすると納得がいかないようなのだけれどね。

 日本国の総理大臣が替わってもう一年ほどになるか。今の総理大臣は軍出身だけれど、国民のことをよく考えて、 今まで有った国の悪い部分を変えようと頑張って居るようだ。

 労働者に関する法律がもっと整備されて行き届けば、もっと働きやすい環境になるのかな?

 労働基準法を守っていたら会社が潰れるという経営者は居るけれど、違法な状態で無いと保てないような会社は、 潰れてしまって良いと思うのだけれど。

 そうは言っても、僕にパターンナーの仕事をくれているお店が潰れたら、確かに僕も困ってしまう。

 労働というのは、なかなかに難しい物だね。

 勤労は義務と言う事になっているけれど、 世の中には様々な事情で働くことが出来ない人が居る。その事実は変えられないことなのだけれど、 働かずに生活をして居る人を過剰なまでに悪い物として扱う風潮は、どうかと思う。

 生まれつきの障害以外にも、病や怪我など、誰にだって働けなくなる可能性は有るんだ。その時、 働かずに居る人々を悪く言っていた人達は、どうするのだろうか。

 これは考えても仕方の無いことなのだろうけれど、心を病んで働くことが出来なくなった悠希のことを考えると、 他人事とは思えなかった。

 

 ある日の夕方、僕はハルから食事に誘われていたので、待ち合わせのために、 電車に乗って御茶ノ水へと向かった。御茶ノ水駅の聖橋口、そこが待ち合わせ場所だ。

 人は多いけれども、駅自体はそんなに広くない。わかりやすい場所だし、何よりハルの職場から近いので、 彼と待ち合わせをするときはここが多い。

 駅前で待つこと暫し。待ち合わせ時間よりも少し遅れて、ハルがやって来た。

「やぁやぁジョルジュ、元気しているかな?」

「おかげさまで、特に不調は無いよ。

ハルはどうだい?」

「そうだね、少し研究で疲れているから、明日の休みはゆっくりしたいね。

さて、どこに食べに行こうか」

「折角だから、落ち着いて話せるところが良いね。神保町の方へ行って、タイ料理屋なんかどうかな?」

「そうだね、そうしよう」

 二人で行き先を決めて、駅のすぐそばにある大きな下り坂を下りていく。

 高台の方には楽器屋が、 降りた先には古本屋があるこの土地。すぐ近くに医大があるとはイメージしづらいかも知れないね。

 ハルがちらりと楽器屋を見て、もし楽器が演奏出来たら、楽しいだろうねぇ。と呟く。

 確かに、楽器が演奏出来ると楽しいだろうね。けれど、 気軽に手を出せる楽器というのは少ない気がする。小学校や中学校で習う鍵盤ハーモニカや、 リコーダーくらいしか手を出せそうに無い。

 暫し楽器の話をして、そうしている内に目的のタイ料理屋に着いた。

 少し閑散としている店内で、メニューを見て何を頼むかを決める。

「ハル、お酒は飲むかい?」

「そうだね、偶には飲もうかな」

 そう言ってどれを飲むかも決めて、店員さんに注文をした。

 

 料理の前に運ばれてきたのは、ジャスミンのサワーと白ワイン。

 軽く乾杯をしてから、少しずつ口を付けていく。

 ふと、ハルに訊ねた。

「ハルは、働かないで生活している人を、どう思うかな?」

 この問いは、色々な事情で働けない人が居ることをハルが知っている。と言う前提で、もしかしたら、 僕が聞きたい言葉を言って欲しかっただけなのかも知れない。

 ハルは飲んでいたジャスミンサワーをテーブルに置き、口を付けていた部分を指で拭ってこう答えた。

「君は、『野生化した安楽死』という物を知っているかな?」

「いや? それは一体何だい?」

「これはね……」

 ハルが説明するには、かつてドイツの病院で行われていた、病人や身体障害者、知的障害者、精神障害者を、 人知れずにガス室で殺し、抹消するという物らしい。

 こう言う事が行われるようになったきっかけは、T4作戦という、 優性遺伝だけを残すべく行われた安楽死の政策だという。

 しかし、T4作戦自体はすぐさまに撤回されたらしいのだが、 その後各地の病院ではその後も劣性とされた者達が殺され続けたのだという。

「ユダヤ人を虐殺するために作られた、ホロコーストのモデルケースになったとも言われているね」

「そんな痛ましいことがあったのだね。

ところで、その話と僕の質問にはどんな関係が?」

 ワイングラスを揺らしながら訊ねると、ハルはにこりと笑ってこう言う。

「T4作戦や野生化した安楽死は、正しいことだと思うかな?」

 ハルの笑顔が、泣いているように見えた。

「確かに、働かざる者を全て殺してしまえば、社会福祉に掛ける国家予算を減らすことは容易だ。

だけれども、僕は働かざる者にも大切な役割があって、生きる意味が有ると思う。

働かざる者は全て生きる資格が無いと言い放つのは、傲慢で無知なことだよ」

「……そうか。

ハル、話を聞かせてくれてありがとう」

「ふふっ。参考になったかどうかは、わからないけれどね」

 ハルは、自分の考えを話してくれたのだろうけれども、やはり僕は、 自分の望んでいた言葉を言って欲しかったのだと思った。

 それでも、ハルの言葉に安心はしたけれど。

 

 料理が運ばれてきて、食事をしながら雑談をする。

 ハルから回されてきた仕事の話と、その後の経過の話だ。

 僕が相談を受けた患者家族は、今のところ道を踏み外すこと無く生活している。と言う話を聞く。

 それから、誰とは言わないけれども何人かの患者が亡くなったという話も聞いた。

 ふと、ハルが言う。

「そう言えば、ジョルジュは知っているかな? 野生化した安楽死の調査をし、 国際社会から禁止を言い渡すきっかけになったのが、君のお父さんだというのを」

「え? そうなのかい?」

「そうだよ。なんでもドイツに視察に行った際違和感に気付いて、日本国軍に報告したらしい。

それで、ドイツに日本国から手入れが入ったのだよ」

「なるほど、そう言う事が……」

 実は、お父様を狙ってくる悪霊は、何故か日本国の者では無い事が多々有る。

 もしドイツの病院の調査をお父様が担っていたのだとしたら、さまよえる霊からターゲットにもされやすいだろう。

「君のお父さんが、 働かざる者を殺すことは正義では無いと主張してくれたように感じられてね。僕はとても勇気づけられたよ」

「医者として、患者に安心感を与える自信が付いたのかな?」

 ハルが研究している病気の患者は、まず働くことが出来ない。だから、生きているだけで意義があると、 患者に自信を持って言えるのは、強みなのだろう。

 お父様は、立派なことをしたのだな。その事をもっと、僕に話してくれても良かったのに。

 

†next?†