ある日の事、カミーユが刺繍糸を買いに出かけた時。
刺繍糸の問屋で、先日誕生日祝いに来てくれた年下の仕立て屋と会った。
「あ、カミーユさんこんにちは」
「やぁこんにちは。この前はありがとう」
狭い店内で車椅子のカミーユが刺繍糸を見るのは大変だろうと、 仕立て屋は刺繍糸選びを手伝ってくれる。
それから、二人とも会計を済ませて店を出た。
仕立て屋は、車椅子を漕ぐのも大変だろうからと、カミーユの家まで押して行ってくれた。
「なんかお世話になりっぱなしで悪いなぁ。ありがとう」
「いえいえ、良いんです。
あっ、でも、実はお願いがあって……」
もじもじしながら仕立て屋が口にしたお願いとは、苦手な刺繍が有るのでカミーユに教えて貰いたいと言う物だった。
カミーユは、それなら刺繍は外注にすれば良いのにと笑いながらも、教えられる物ならばと承諾する。
その代わり、授業料は貰うけれどそれでも良いかと訊ねると、仕立て屋はそれでも良いと言う。
甚く喜んだ様子の仕立て屋に、それなら安息日の午後に少しずつ教えるからおいでと言うと、 仕立て屋はお礼のキスをカミーユの額に落として、機嫌良く帰って行った。
そうしてやってきた安息日。
午前中は教会へ行き、帰ってきて昼食を済ませた所で誰かが家のドアを叩いた。
「ギュス、ちょっと出てくれる?」
「おうよ」
ギュスターヴが玄関のドアを開けると、そこには例の仕立て屋が居た。
ああ、話に聞いていた刺繍を習いたいって人か。と判断したギュスターヴは、早速仕立て屋を家の中に入れる。
まだ居間に居たカミーユの所へ仕立て屋を連れていくと、 仕立て屋はぎこちない素振りで真っ赤な薔薇を一輪、カミーユに差し出した。
「あの、良かったら受け取ってください」
「ん?ありがとう。
でも、何で薔薇なんて持って来てくれたの?」
「あ、あの、これから暫くお世話になると思うので、それで……」
「そうなの?嬉しいなぁ。
アル、これ何かに生けて置いて」
カミーユがテーブルを拭いているアルフォンスに薔薇を差し出すと、 アルフォンスは何故か不機嫌そうな顔をして、わかった。と言ってから薔薇を受け取る。
それから、カミーユの頬を軽くつねって台所へと行く。
アルフォンスのその様子を見て、カミーユは掃除中に声を掛けたから機嫌を悪くしてしまったのかなと少し反省したが、 余り詮索してもまた機嫌を損ねるだろうと思い、仕立て屋に声を掛けて作業場へと向かった。
作業場で、仕立て屋に刺繍の指導をする。
頼まれたのは、ドロンワーク。どうやら糸を抜くのが上手く出来ないらしい。
カミーユは糸を切るコツ、それから糸を抜く時のコツを丁寧に仕立て屋に教えていく。
「これがドロンワークの基本だよ。今日はこれの練習。
これが仕上がったら今日の授業は終わりだけど、宿題も出すからね」
「はいっ!」
仕立て屋に見本を見せ、時折手を取りながら、課題を進めさせる。
そうしていて暫く、仕立て屋に与えた課題が出来上がった。
気を遣う作業だったから疲れただろうと言って、カミーユは仕立て屋を居間に誘い、 アルフォンスにドライフルーツを用意して貰って振る舞う。
カミーユと仕立て屋だけで無く、ギュスターヴとアルフォンスもテーブルに着き、 ドライフルーツを食べながら雑談をする。
それから、カミーユはなにやら名残惜しそうな仕立て屋から授業料を受け取り、玄関から見送った。
翌朝、朝食を食べにカミーユが居間へと行くと、テーブルの上に真っ黒な薔薇が一輪、生けられていた。
それを見て、ここに生けられていたのは、昨日仕立て屋から貰った赤い薔薇の筈なのに。と疑問に思う。
生けた本人であるアルフォンスに薔薇の事を訊ねると、アルフォンスも改めて薔薇を見て驚く。
誰が薔薇を取り替えたのだろう。二人が疑問がっているとギュスターヴもやってきて、 赤い薔薇はどこにやったのか等と言う。
誰も薔薇の交換などしていない。その事に三人は気づくが、カミーユはにこにこしながらこんな事を言う。
「もしかして、時間が経つと黒くなる薔薇なのかな?珍しいね」
他の二人は、そんな薔薇など存在するのだろうかと疑問を抱くが、別段何か実害が有る訳でも無し。
その薔薇を飾ったまま、暫く日々を過ごした。
その後、仕立て屋は授業の度に赤い薔薇を一輪ずつ持って来ていたのだが、 いずれも翌日には黒い薔薇へと変わっていた。
薔薇の事は仕立て屋には告げずに居るうちに、カミーユの授業は終わりを迎える。
「今日で授業は終わりだよ。いままでお疲れ様でした」
カミーユの労いに、仕立て屋は顔を赤くしてこう言う。
「ありがとうございました。
あの、良ければお礼のキスを……」
「そう?ありがとう」
仕立て屋がカミーユの頬にキスをすると、カミーユも仕立て屋の頬にキスを返す。
すると、仕立て屋がカミーユに抱きついた。
苦手な刺繍を克服できたのがそんなに嬉しいのかと、カミーユは優しく仕立て屋の背中を叩く。
それから、今日もおやつを食べていったらどうかと仕立て屋に声を掛けたのだった。