日差しが強くなり、日が昇るのも殊更に早くなった夏の日。ミカエルとリンネは相変わらず、錬金術の研究と、 ハーブの栽培と蒸留をして日々を過ごしていた。
この日も、夜が明ける前に朝食を済ませ、ミカエルはフラスコの様子を見て、リンネは畑でハーブを収穫している。
ふと、ミカエルが、ハーブの収穫が終わって持ってきたリンネに声を掛けた。
「ところで、先程確認したらアンジェリカ水が溜まっていたんだ。運ぶのを手伝ってくれないかい?」
「はい、わかりました」
ふたりは研究室を出て、畑とは家を挟んで反対側にある庭へと向かう。庭は偶にしか手入れをしないので、 青い香りの雑草が生い茂っている。
その雑草に囲まれて、大きさが一抱えほど有るガラスの器がいくつか並べられていた。その器を、 ひとつずつ慎重に抱えて研究室まで運ぶ。中に溜まった雨水が零れないように、中の水に触れないように、気を払って。
錬金術で『塩』を蒸留するために使う水は、 こうやってガラスの器に溜めた『アンジェリカ水』と呼ばれる雨水でなくてはならない。この水には、 金属も人の手も触れさせてはいけない。触れた途端、その内に秘められた不思議な力が失われてしまうと言う。
それは本当のことなのか、ミカエルにはわからなかったけれども、 そう言い伝えられているからには何か理由が有るのだろう。賢者の石を作るために、 少しでも可能性は高い方が良い。そう判断して、ガラスの器で雨水を溜めているのだ。
「やあありがとう。これで全部かな」
ふたりでガラスの器をすっかり運び終えて、 ミカエルはにこりとリンネに笑顔を向ける。普段あまり力仕事をしないミカエルの腕はぐったりとしてしまったけれど、 日頃力仕事をしているリンネはまだまだ元気そうだ。
ハーブの盛られた大きな籠を持って、リンネがミカエルに問いかける。
「そういえば先生、そろそろ塩が無くなる頃ですけど、作りますか?」
「そうだね。今日は香油を採らないで塩を作ろう」
ミカエルはそう返し、大きな鍋をリンネに出して貰い、その中にハーブを乗せていき、火を付けた。
まずは鍋の底から熱して、ハーブを乾燥させる。青々としたハーブは爽やかな芳香を放ちながら、 少しずつ焦げていく。時折混ぜながら万遍なく焦がす。全体が脆く崩れるほどに、真っ黒く焦げたら、 すりこぎで細かく潰していく。これで、塩の出来上がりだ。
そうこうしている間に、村人たちが訪れてくる頃合いになった。ミカエルは村人を迎える診察室に移動し、 リンネはこれからまた一仕事有るミカエルのために、台所でコーヒーの準備を始めた。
村人たちの診察も終わり、 ゆっくり昼食を食べ終わってひと休みしているミカエルとリンネ。診察の時に多少調子が悪い人はいたけれども、 いつも通りの平穏な時間。食後のコーヒーを飲み終えて、錬金術の書物に向かおうとしたその時、誰かが玄関を叩いた。
「はい。何かご用ですか?」
倚子に座ったままミカエルが大声でそう訊ねると、扉の向こうから男の声でこう聞こえた。
「先生、そこの通りで猫が死んでるんですよ。なんとかしてくれませんかね?」
「ああ、わかりました。今向かいます」
村人の声かけに、ミカエルとリンネはすぐさまに暖炉の上に置かれた手袋を手に取り填める。それから、 ミカエルはマッチとバケツを持って、リンネは薪を背負って玄関を出た。
報告に来た村人に案内され、ふたりは猫の死骸の側へと歩み寄る。見たところ、 所々に生傷があるので死因はこれだろうと判断する。
死因はなんであれ、動物の死骸を放置しておくのは良くない。ミカエルは猫の死骸を掴み、 いつも死骸の処理をしているところへと運ぶ。
村人が周りに何人かいるが、ミカエルの持っている猫の死骸を見て、避けるように、 けれども立ち去らずに遠巻きにしている。
猫を地面に置き、リンネがその上に薪を積む。隙間に松毬を入れたところで、ミカエルがマッチで火を点した。
松毬の爆ぜる音がする。煙と異臭が立つ。
黙々と薪をくべていくミカエルに、誰かが訊ねた。
「先生、なんで動物は焼いてしまわないといけないんですかね?」
その問いに、ミカエルは勤めて明るく、しかし冷静な口調で答える。
「屠殺で無く死んだ動物は、どんな病を媒介するかわからないからね。
疫病を防ぐためには焼いてしまうのが良いんだ」
この言葉を、村人たちはどう受け取ったのだろう。恐れを含んだ声、感心したような声、 様々な声が混じるざわめきが聞こえた。
炭になった猫をいつも通り廃屋近くの森で処理した後、ふたりは足早に家へと戻った。
「リンネ、手袋の処理はやって置くから、君は虫除けの石を作って配ってきておくれ」
「はい、わかりました」
ミカエルはリンネから手袋を受け取り、アイロンの用意をする。アイロンが熱くなるまでの間に、 暖炉の中で乾燥させていた、いくつもの小さな石膏の塊を取り出してテーブルの上に置く。
それに合わせて、リンネは香油の入った木の箱を持ってきて、 中から遮光瓶をいくつか取りだしている。一旦小皿の上で香油を混ぜ合わせてから、石膏の塊に少しずつ浸し、 全部に香りがつくと、それを持って玄関を出て行った。
暑くなってくると、良くも悪くも虫が増える。虫もまた、病の元になる事を知っているミカエルは、 毎年こうやって村人たちにささやかながら虫を避ける香りを配っているのだ。
けれども、それだけでは病は防げない。より病を遠ざけるための方法は有るけれども、 それはミカエルひとりの力ではどうにもならない事だった。
「全員に石鹸を行き渡らせるのは、難しいね」
そう呟いて、ミカエルは熱したアイロンを革手袋に当てた。