木蓮に惹かれて

 そこは木蓮の木のすぐ側にあった。僕は小さい頃からエレクトーンの教室に通っていて、弾くのも歌うのも大好きだった。
 この教室に通っている子はみんな仲が良くて。と、言いたい所だけれども、ひとりだけ他の子から仲間はずれにされている女の子がいた。歌が上手で、誰が見てもかわいいとわかる顔立ちをしていて、でもとてもわがままでいつも偉そうにしてる子だった。
 その子は、自分が仲間はずれにされているのを、周りが悪いのだと先生にも両親にも言っていて、その事がまた周りから嫌われる要因になっていた。
 レッスンが終わった後、怒ったような寂しそうな顔をしているその子に声を掛けた。すぐに邪険な返事が返ってきたけれど、僕はずっとその子に言いたいと思っていた事を口に出した。
「ぼくはきみがうたううたがすき」
 それを聞いて、嫌味だと思ったのだろうか。その子は顔を真っ赤にして走って帰ってしまった。
 その後、ずっとその子に会う事はできなくなってしまった。僕が声を掛けた次の日、あの子は遠くの街へと引っ越してしまったのだ。
 なぜだか胸にぽっかりと穴が空いた気がした。

 それから十年。あの子の事を思い出す事も少なくなってきた頃、夕食後にテレビの音楽番組を観ていたら、見覚えの有る姿が映った。デビューしたてのアイドルと紹介されたその人は、随分と成長したけれど、あの日以来会う事ができなくなっていたあの子だった。
 ライトで照らされ、伴奏が流れるステージの上で彼女が歌って踊る。今思うと、彼女の歌は際立って上手いわけではないように思えたけれども、ひどく惹きつけられた。歌っているのは明るい恋心の歌だけれども、そこに込められている感情はそんな可愛らしい物ではなかった。ひりひりと肌を刺すような嫉妬、怨恨、そして傲慢さ。彼女は昔と何も変わっていなかった。寒気がして肌が粟立つ。けれども彼女の歌から気をそらすことができない。
 演奏が終わって一息つく事ができた。彼女が昔と変わらないままなのは良い事なのか悪い事なのか、僕にはわからない。ただ、テレビの中で司会者に話し掛けられて笑顔を浮かべる姿を見て妙に安心した。
 それと同時に、彼女はもう手の届かない所に行ってしまって、もう一度だけでも会うと言う事はできないのだろうなと思った。

 僕は小さな頃から音楽の道を志していた。高校は音楽科に進み、大学も音大を卒業した。
 無事に歌手として仕事を貰う事もできるようになり、何度も舞台に立つ機会に恵まれた。けれども、それは彼女が立っている舞台とは違う物で、近くに来られたはずなのに、越えられない壁が彼女との間に立ち塞がっているように感じられた。
 僕が舞台で歌うのは、クラシックの歌曲だ。今の生活に不満があるわけでは無いけれど、彼女と僕を隔てる壁をどうにかして越える事ができないだろうかと悩んでいた。
 そんなある日の事、朗報がはいった。僕にポップスの曲を歌って欲しいという依頼が来たのだ。
 ひとりでその曲を歌うのではなく、声優をやっているという人と組んでとの事だったけれども、僕はこの依頼をふたつ返事で受けた。
 彼女にもう一度会えるかも知れない。

 声優をやっている先輩と一緒に歌ったその曲は、大ヒットとまではいかない物の、ワイドショーで紹介されるくらいには話題になった。自分の歌声が物珍しがられているだけ。と言う自覚はあるけれども、話題になったおかげで音楽番組に出演する仕事を貰う事になった。
 番組当日、こう言ったステージに立つのは僕も先輩も初めてなので、控え室で緊張したまま準備を進め、リハーサルの時間までに余裕を持って撮影所へと向かう。
 その時だった。今まさに通り過ぎようとした他の出演者の控え室から、彼女が出てきたのだ。
 思わず呆然として立ち竦む。彼女も驚いた顔をして僕を見て、顔を歪ませてぼろぼろと涙を零して泣き出した。
 どうしたのだろう。僕が声を掛けると、彼女は僕の腕を掴んで言う。
「やっとあんたに会えた」
 彼女は、あの日引っ越して以来、ステージに立っていれば僕に会えると、ずっとそう思ってこの道を選んだらしい。それを聞いて、僕はかける言葉が見つからなかった。
 涙でメイクが崩れてしまった彼女が、控え室のドアを開けて中に入る。ドアの向こうから横柄な態度でメイクを直せと言っている声が聞こえた。
 一部始終を見ていた先輩が、複雑そうな顔をして僕に訊ねる。
「あの子、元カノかなんかなん?」
「違います」
 その答えは意外ではなかったようだけれども、腑に落ちたわけではなさそうだ。
「でも、あこがれの人です」
 先輩は、よくわからないといった顔をしているけれども、とりあえず。といって撮影所へと向かいはじめた。僕もその後に付いていく。
 もうすぐ彼女の歌を直に聴く事が出来る。僕はその事に胸を躍らせた。彼女は僕が持っていない物を持っている。それはきっと、他のひとからしたら忌むべき物だけれども、僕はそれにあこがれてやまないのだ。

 

†next?†