長い旅路の中、僕はとある村を訪れた。その村は一見豊かそうに見えて、けれども外の人間を歓迎するような所ではなかった。当然この村に宿など無く、日も暮れてきてしまって些か困っていた。
最悪、どこかで野宿をしようかとも思った。屋根の下にいられなくても、村の外よりは安全だろう。そう思っていたけれど、人の良さそうな村人が、食事は出せないけれど屋根を貸すくらいはできると僕を迎え入れてくれた。ありがたくその言葉に甘えて、村人の家に入る。お礼として、僕が持っている食糧を少し渡した。
屋根の下で安心して眠った翌日、僕を泊めてくれた家の人が家から出るなと僕に言い残してどこかへ行ってしまった。
一体どうしたのだろう。もしかして、僕を人買いにでも売るつもりなのだろうか。いや、それならば僕が寝ている間に持ち物をすべて奪って、僕自身も売り渡してしまう事が可能だったはずだ。不思議に思って家の中で考え事をしていると、どこからともなく泣き声が聞こえた気がした。
誰が泣いているのだろう。家の中を探し回る。しかし家の中に僕以外の人がいる気配はどこにもなかった。
それでも泣き声が気になって、言いつけを破って家の外に出る。すると、外にも人気がなく静まりかえっていた。一体村人達はどこへ。そう思いながら村の中を歩き回っていると、声が聞こえた。周りを見渡すとやはり誰もいない。もしかして、この乾いた風に乗って聞こえてきているのだろうか。一旦立ち止まり耳を澄ませる。微かなざわめきと、それよりも小さな泣き声が、風が耳を撫でる度に聞こえた。小さな泣き声には、激情とも言っていいほどの何かが込められている気がした。それを放ってはおけないと、僕は微かな音を頼りにまた歩き出した。
辿り着いたのは村の近くにある泉で、そこにおそらく、村中から集まったのだろうという人々がいた。彼らの視線の先には、桟橋の上に立つ、手首を縛られて泣いている少女の姿があった。
「なにをしているのですか?」
大声でそう訊ねると、村人達が僕の方へ向き直った。彼らは口々に、よそ者が何の用だ。とか、よそ者が邪魔をするな。と言う。邪魔をしないで欲しいのなら、何をしているかの説明が欲しいと言うと、村人達の代表とおぼしき男がこう言った。
神様がこの村に雨を恵んでくれるように生け贄を捧げる所だ。
なるほど。それはこの村の人々にとって大事な儀式だというのはよそ者である僕にも手に取るように理解出来た。けれども、桟橋の上で泣いている少女を見殺しにする事はできないと、何故かそう思った。
生け贄になるための条件は何かあるのかとさらに問う。その問いの答えはすぐに返ってくる。神が気に入るものであればなんでも。そう言う事だった。
確かに言われてみれば、少女は際立ってうつくしい顔立ちをしていて、きっと神様も彼女を捧げれば満足するだろうと納得する事ができた。それでも、僕は敢えてこう言った。
「僕が生け贄になるので、彼女の事は解放してください」
疑惑の目が向けられる。村人からすれば、通りすがりの、凡庸な見た目で、何か秀でた物がないように見える僕が生け贄に相応しいとは思えないのだろう。
僕は村人を掻き分けて進み、少女の隣に立つ。桟橋を足で叩いてリズムを刻み、手拍子を添えて口を開いた。僕の喉から流れ出るのは神を讃える歌。僕は各地を旅して回って、歌を歌って日々の糧を得ている。そう言う事ができるからこそ、きっと神様は僕を多少は気に入ってくれるだろうと思っている。
歌い始めてすぐに村人達は静まりかえり、それから、もうしばらくすると明るい空から雫が降り始めた。大粒の雨が、乾いた土を叩いて濡らした。
雨の音が響く中、僕は村人に訊ねる。
「これでも、生け贄には相応しくないですか?」
歓声を上げる村人達を背に、少女を生け贄にしようとしていた男が僕に言う。今回はこの子を見逃してやろう。それから、少女の手首を縛っていた紐をほどいた。
これで生け贄を出さずに済むだろうか、一瞬そう思ったけれども、僕は手首を捕まれて、確認するようにこう言われた。
「では、お前を生け贄にするぞ」
ああそうだ。自分で言った事は取り返せない。今になって、まだ訪ねた事のない土地に行ってみたかったとか、もっと歌いたかったとか、後悔のようなものが押し寄せてきた。けれど桟橋から岸に戻った少女の事を見て、彼女が助かったのならそれで良いと、何故か自分でも驚くほどに納得出来てしまった。
何故彼女を助けたいと思ったのだろう。それはきっと、彼女の泣き声に籠もった激情とも言えるほどの悲哀で、その哀しみを拭うためではなく、心を揺さぶるほど激しい感情に、僕は突き動かされたのだと思う。
僕が持っていない強い感情を持ったあの子が、これから先も生きて欲しいと、どこかで思ってしまったのだ。
通りすがりの僕の事を覚えてくれていなくていい。早く忘れ去ってしまって、誰かを愛して幸せになって。