第一章 その街に到る

 ある年の春のこと。子供が駆け回り、女達が洗濯をしている、穏やかな時間が流れるその街に見知らぬ男が訪れた。
 彼は小柄で、背負っている大きな荷物のせいで子供のようにさえも見えた。着ている服はずいぶんとくたびれているけれども、青い髪は短く切り揃えられていて、体はしっかりと手入れをしているようだった。
 彼は疲れ果てていた。重い足取りで街の通りを歩き、目が合った女性にこう訊ねた。
「この街にはお医者様はいますか?」
 その問いに、女性は遠方から医者を探しに来た人だと思ったようで、町医者の家を何軒か彼に教えた。彼は深々とお辞儀をして礼を言う。それから、教えられた町医者の家を目指してまた歩き始めた。

 彼は薬師だ。数ヶ月前に訳あって、いままで師事していた人物からその場を離れるように言われ、ここまでやって来た。今までいくつかの医者のいる街で、医者の助手として雇ってもらえないか交渉をしたのだが、いずれも断られてしまった。
 この街でも、腰を落ち着けることは出来ないかも知れない。そう思いながら彼は町医者を訪ねていく。
 一軒目、二軒目と、やはり雇ってもらえる様子はなかった。疲れた足で次の町医者の家へと向かう。次の家で最後だ。ここで雇ってもらえなかったら、また他の街に行くしかない。
 周囲の家々から料理の匂いが漂ってくるようになった頃、彼は最後の町医者のドアを叩いた。
「ごめんください」
 声を掛けて少し待つと、足音が聞こえてきてドアが開いた。
「なんですか? 今日の診察は終わりましたよ」
 そう言って出て来たのは、中背ですこし恰幅の良い、紫色の髪を短くまとめている、少し陽気な感じのする男性だ。その男性に、彼はお辞儀をしてから言う。
「僕の名前はリンネと言います。
実は、僕のことを薬師として雇ってくれるお医者様を探しているんです」
 リンネのその言葉を聞いて、男性は顎に手を当てて考える素振りを見せる。
「薬師ねぇ……」
 訝しげな目で見られて、リンネは思わず緊張する。こういう目で見られるのは今に始まったことではないけれど、どうしても慣れない。
 やっぱり断られるだろうか。そう思っていると、男性はドアを大きく開いてこう言った。
「よし。じゃあどの程度薬が作れるのか実演してもらおうか。
薬師と言うからには、そのための薬草とか持っているんだろう?」
 そう言って中へ入るよう促すので、リンネは少し遠慮がちに、ドアの中へと入っていった。

 案内されたのは、いつも男性が使っているのであろう調剤室だ。壁に置かれた棚の中には薬草が詰まったガラス瓶が沢山置かれていて、その薬草の変質を防ぐためか、窓は小さめだ。この部屋には乳鉢も薬研も、薬匙もある。
「道具は好きに使って良いから、やってみてくれる?」
「はい、わかりました」
 男性の言葉に、リンネは早速荷物を下ろし、中から愛用の乳鉢と薬匙と、蝋引きされた紙に包まれた薬草を取り出す。その薬草は萎びてはいるけれども、摘んで来てあまり経っていないようで微かに水分を含んでいた。
 何種類かの薬草を乳鉢に入れ、すりつぶしていく。爽やかな香りが立つ。
「すみません、ワインを一杯いただけますか?」
「ワインかい、少し待っておいで」
 ワインをなにに使うのかすぐにわかったのだろう、男性は調剤室から出て行き、少ししてから銅で出来たカップに白ワインを入れて持って来た。
 リンネはそれを受け取り、乳鉢ですりつぶした薬草をそっと入れて、薬匙でかき回す。そうして出来上がった液体を、男性に差し出した。
「いかがでしょうか」
 様子を窺うように訊ねると、男性はカップの中身の香りを嗅いだり、少し口に含んで味を見たりしている。何度も確かめるように鼻を近づけ、少しずつ口に含む。その様をリンネは縮こまって見ていた。
 今回も駄目か。そう思った瞬間、男性は大きく頷いてリンネに向き直った。
「合格だ。多少あらはあるけれども、使っていた薬草の状態が良くなかったからね。
あれでここまでできれば上出来だよ」
「それじゃあ……!」
「君を私の助手として雇おう」
 ここに来てようやく、自分の居場所がまたできるのだと、その喜びでリンネは言葉が出ない。なにも言えずに何度も頭を下げていると、男性がいたずらっぽく笑ってこう付け足す。
「あと、私は料理や掃除が苦手でね。
今まで掃除はなんとか頑張ってきたたけれど、食事はパンに偏りがちでね。
君がおいしい料理なんかも作れるようだと、私は嬉しいなぁ」
「はい! 料理も掃除もできます!
これからよろしくお願いします!」
 これは誇張ではなく、リンネはほんとうに、以前師事していた先生の元で家事をこなしていた。家事ができることが医者の助手として役立つというのは意外だったので、かつての先生に心の中でお礼を言う。
 喜びに沸き立っていると、カップの中身をすっかり飲み干した男性がリンネに軽く頭を下げてから真面目な顔をする。
「それじゃあ私も名乗ろうか。
私の名前はイーヴ。この街ではそこそこ長く医者をやっているよ」
 これからこの人のもとで仕事をするのだと気が引き締まる。覚悟を込めて、リンネは改めて言う。
「イーヴさん、これからよろしくお願いします」

 そうしてイーヴのもとで働くようになったリンネは、患者に処方する薬を調合したり、イーヴの身の回りの世話をして日々を過ごした。
 洗濯をしたり、食材を買うときに市場に行ったりしているうちに、近所の人とも話すようになりすっかり打ち解けていった。
 この街に馴染んでしばらく経った頃、夕食時にイーヴがリンネに訊ねた。
「そういえば、リンネ君はなんで旅をしていたんだい?」
 それは、あまり訊かれたくない質問だった。けれども、ここまで懇意にしてくれているイーヴの質問を無視するわけにもいかない。
「実は、以前は師事していた先生と一緒に暮らしていたのですけど、ちょっとわけがあって追い出されてしまって」
「ふむ」
 意外といった顔でイーヴに見られたリンネは、少し気まずくなる。なにか問題を起こしたのではと思われたらどうしようと思ったのだ。
 そんなリンネの気持ちを知って知らずか、イーヴはにっと笑ってこう言った。
「何があったのかは知らないけれど、その先生のおかげで私は君のような働き者を雇えたんだ。これも運命だね」
「そう、ですね」
「私は君の調薬の腕だけでなく、ごはんもすっかり気に入ってしまったんだ。
だから、ずっとここにいてくれると助かるな」
 それを聞いて、リンネも緊張が解けて笑顔になる。イーヴが昔の話を聞きたいというので、昔のたわいのない話を少しして、料理を食べ終わった食器を片付けに行く。食器を洗っている間に考える。以前一緒に暮らしていた先生が今、どうしているのか。生きているのか。そんな事を考える。
 もし仮にもう会えないとしても、先生には生きていて欲しいのだ。

 

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