第九章 平等な理不尽

 夜は薬を作り、陽が出ている間は往診をする毎日。往診のための装束を身につけることにはじめのうちは抵抗があったけれども、いまはもう慣れてしまった。マスクに詰めたハーブの香り、ミントやヘンルーダ、はじめは心地よく感じたそんな爽やかで青い香りが、いまでは心を疲弊させる。
 完全に自分の正体を隠したその姿で街を歩くと、明らかに街の人は遠巻きにした。それはリンネに限ったことではなく、他の医者もきっと同じだろう。
 病を治すはずの自分たちが穢れのように扱われる。その理由は痛いほどよくわかる。理由はあまりにも簡単だ。この街で黒死病が流行り始めてから、ひとりも救えていないのだ。死の使いと思われてもなんの不思議もない。
 ほんとうは、リンネだってこわいのだ。黒死病に罹ることが。けれども、病や薬の知識を持った自分たちが立ち向かわないで誰が立ち向かうというのだろう。
 たまに思う。もし仮にこの街が閉鎖されなかったとしたら、自分はこの街から逃げ出しただろうか。患者の元へ往診に行く途中にそれを考えては、やはり逃げ出すことはできないと思う。自分を受け入れてくれたくれた人々を見捨てて逃げるなどということは、もう二度としたくないのだ。先生の元から逃がされて、戻ることもせずにそのまま逃げてここまで来た自分が、また逃げることは許せなかった。立ち向かうことをしなければ、自分が正体を無くしてしまいそうな気がするのだ。
 考え事をしているうちに患者の家に着いた。ドアをノックして家の人に中へと入れてもらう。今回発症したのは、この家の子供だ。まだ十歳にも満たない小さな子供だという。その子が寝かされている部屋に通され、様子を見る。日差しを遮るように締められたカーテンの下に有るベッドで、苦しそうな表情で子供が寝ている。目の回りには涙の跡があって、鳴き声を上げることすらもつらいのだろう。
 リンネは薬の入った籠をここまで案内してくれた母親に持っていて貰い、真っ直ぐな杖を使って子供にかけられた布団を捲る。それから、杖の先で首の付け根、脇の下、鼠径部を軽くつつき腫れていることを確認する。この腫れは熱を持っているのだろうか。直接触れることはできないのでそれはわからないけれども、うっすらと目を開けて自分の方を向き、なにかを言いたげに口を開ける子供を見て、どうしようもないやるせなさを感じた。
 母親から薬の入った瓶を受け取る。それから、持っていた布巾を薬で湿らせて少しずつ子供の口に与えていった。
 子供が顔をしかめる。薬が喉や口の中に滲みるのか、それとも、単純に不快な味なのか、それはわからない。それでもゆっくりと、ゆっくりと、必要な分だけ薬を飲ませる。効くかどうかわからないこの薬が、今度こそ効いてくれることを祈りながら。

 子供の患者の往診が終わり、今度は他の患者の往診に向かった。次に向かったのは、前日新しく診た若い女性の患者の家だ。彼女の家は、裕福な方なのだろう。小さいとは言え一軒家に住み、小綺麗な調度品を揃えたその家は、きっと時折知り合いを呼んで小さなパーティーを開いたりもしていたのだろう。けれども、そう思わせる面影があるだけで、いまは陰鬱な空気で満ちている。
 彼女は、ほんの数日前までは毎夜着飾ってオペラの公演を観に行っていたらしい。昨日診察したときも、うわごとのようにまた舞台を見に行きたいと言っていた。
「お邪魔します。往診に参りました」
 そう言ってドアをノックしたリンネを、患者の両親が陰鬱な表情で迎え入れる。そして、開口一番こう言われた。
「どうやら、娘は旅立ってしまったようです」
 震える声でそう言った父親は、涙も零さずリンネのことをぢっと見る。マスクで顔が隠れているとは言え、どんな顔をすれば良いのか、リンネにはわからない。
 それから、念のために確認して欲しいと患者の部屋へと通された。ベッドに横たわるやつれた女性。その姿を少し離れた所から睨むように見つめ、胸が動いていないことを確認する。それから、ゆっくりと近づいて彼女の顔を覗き込み、閉じられた瞼を手袋を付けたままの手でそっと開かせた。瞳の中の瞳孔を見る。手で遮ったり、鏡を使ったりして光を当てても大きさが変わらない。続いて口元に耳を寄せる。何も聞こえない。それを確認して、彼女はほんとうに息絶えたのだとリンネは確信した。
 患者の両親に向き直って、リンネは十字を切って頭を下げ、重々しく言った。
「教会に連絡を」
 すると、糸が切れたように母親が泣き崩れた。きっと、まだ生きていて治る見込みがあると思いたかったのだろう。母親を庇いながら、父親がリンネに頭を下げて、一言、ありがとうございました。と言った。

 何人もの患者を診て日が暮れた頃、ようやくリンネは家に帰った。家に着き、纏っていた装束を解く。この忌々しいマスクを外しただけでどれだけ心が落ち着くことだろう。
 マスクとマントをいつもの場所に戻し、手袋にアイロンをかけたあと、まず手を着けたのは食事の用意だ。食べ物を作っているときは、日々向かい合っている死から目をそらせる気がするのだ。食べると言うことは生きることの象徴で、それに触れる時間は黒死病の往診をはじめてからますます惹きつけられるようになった。
「ただいま。リンネ君も帰っているね」
「あ、イーヴさんおかえりなさい」
 聞こえてきた声に玄関をちらりと見ると、疲れた様子で帰ってきたイーヴも、マスクとマントを脱ぎ、革手袋にアイロンをかけていた。そうしている内に、夕食が出来上がった。
 夕食を居間に運び、ふたりで食べる。
 ふと、イーヴが言った。
「なんだかこのところ手の込んだ料理が多い気がするけれども、無理をしてはいけないよ」
「あ、はい。そうですね。ありがとうございます」
 手の込んだ料理をつい作ってしまうのは、きっと現実逃避だ。それをイーヴに言って良いものかどうか、それはわからなかった。

 

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