第二十章 春のような冬

 黒死病を乗り越える患者が出たことで、逆に厳しい立場に立たされるようになった医者達。彼らの疲れが急激に膨らんでいく中、彼らを支えているのは患者の数が目に見えて減っているという、教会の聖職者達が出した観測結果の数字だった。
 数字を見るまでもなく、近頃は新患の数が急激に減っている。それはもう体感でわかるほどだった。地獄の釜のようなあの穴へ運ぶ遺体の数もずいぶんと減った。今ではひとりあたり一日に四、五人運べば多い方だった。埋葬する人数が減り、大きな墓穴をまた新たに掘る必要は無いのではと言う考えも出るほどだった。
 黒死病が治癒する患者の数もだいぶ増えた。あの猛威は一体何であったのか、わからなくなってしまうほどだった。
 その中でもいまだいる病死者。そこに立ち会う医者は不幸だ。患者の家族が抱えている理不尽を一身にぶつけられるのだから。それでも医者はこれも最後の試練だと自分に言い聞かせ往診を続けると誓ったのだのだ。黒死病がこの街が消え去るまで。

 街に希望が戻ってきている最中、リンネはふとした拍子に自分の身体を傷つけたいと思う気持ちが湧いてくるのを感じていた。その気持ちは一体何であるのか、自分ではわからない。ただ、以前イーヴが言っていた、死なないでおくれというその言葉に支えられて、何とか自分を傷つけずにいられた。そしてそのことは、誰にも知られてはいけないと思っていた。
 そんな日々の中、ついに黒死病の新患が出なくなった。それはこの日一日だけのことかとも医者達は思ったけれども、それから数日様子を見て、やはり新患の出る日、出ない日と繰り返した。一進一退を繰り返す中で、すでに罹っている患者は死んでしまうか、もしくは緩やかに回復していく。それはまるで選別が行われているようだった。
 このまま黒死病が去って欲しいと、リンネは患者数などの調査結果の書類を見る度に教会で祈っていた。黒死病でこれ以上苦しんで死ぬ人が出ないように。そしてそれ以上に、自分の心に早く平穏が訪れるように、それを願っていた。
 教会でゆっくり祈る時間が取れるようになった頃、ついにその時は来た。黒死病の新たな犠牲者が出なくなって一週間が経ち、その頃には黒死病の患者は全て、死んでしまうか治癒してしまったかのどちらかになった。この街から黒死病が消えたのだ。
 教会で記録を取っていた聖職者や、手伝いの人々が喜びの声を上げる。しかし、一方の医者達は慎重だった。まだしばらく様子を見ないと、またぶり返す恐れもあったからだ。
 医者達のその言葉を受け止めた聖職者達は、黒死病が消えたという話を街に伝えるのはしばらく先のことにしようと話をまとめる。
 これでまた一週間ほど黒死病が出なければ我々の勝利だろうと、医者達は見立てをした。

 そして一週間が過ぎ去った。もう黒死病での死者はいない。そして新たに罹る患者もいなかった。
 嘴の付いたマスクとマントを被り、教会に集まっていた医者のうちのひとりがこう宣言した。
「我々は黒死病に勝った」
 そうして、その医者がマスクを外すと他の医者も続いてマスクを外した。リンネも同様にマスクを手に持った。
 その場にいた全員が喜びに沸く。聖職者達はその場で書類の整理をしていたけれども、手伝いの街の人は教会から飛び出して、この吉報を皆に知らせに走った。それは凍えるほど寒い日の、けれども明るい陽が照らす朝のことだった。

 黒死病の脅威が過ぎ去ったあとも、すぐにこの街の閉鎖が解かれたわけではなかった。都に手紙を送り、その返事が返ってきてからまた指定の期間黒死病の発生が無いかを確認し、その結果を都に送って、ようやく閉鎖が解かれた。
 街が開放されたその日は、街中がお祭り騒ぎになった。他の街に親戚がいた人などは親戚が会いに来ていたし、そうでない人もこれでまた外に商売に出られるだとか、外から人が来てくれるだとかでなんだかんだで騒いで祝っていた。
 そんな騒ぎから少し距離を置いて、リンネはイーヴと共に家で珈琲を飲んでいた。
「君は、この街の外に会いたい人はいるのかな?」
 その問いに、リンネはぐっと息を呑んでから答える。
「いますけど、もう会ってはいけないと言われたんです」
「……深くは訊かない方が良さそうだね」
 すこし気まずい空気になったのを誤魔化すように、珈琲を口に含む。まだ熱い珈琲が舌を焼いた。
「あつっ」
「おやおや、あわてんぼうだね。
火傷してしまったみたいだけど、大丈夫かい?」
 舌の痛みを感じて、少し前はこの感覚を求めていたのに、今は不快だった。
「痛いのが嫌なので、大丈夫です」
 にっこりと笑ってそう返すと、イーヴが不思議そうな顔をする。
「何だか不思議なことを言うね」
「そうですね」
 ふたりで笑い合って、今思うとあの黒死病の猛威自体が不思議なことだったのではないかと話した。
 突然現れて突然消えた、おそろしい疫病。その正体はいまだわからないけれども、あのおそろしい病の最中で、リンネはひとつだけ安心したことがあった。それは、あの騒ぎの最中、魔女狩りが行われなかったことだ。
 きっと、この街は魔女狩りとは縁のない所なのだろう。そう思うと、かつて師事していた先生も連れてここに来ればよかったとも思う。けれどもそれは叶わないことだし、今更な事なのだ。
 窓の外を見る。笑顔の人々が道を行き交う。もう冬だというのにもかかわらず、その光景と太陽の光は、まるで春を迎えたかのようだった。

 

†fin.†