第六章 はじまりの日

 道の片隅で鼠の死骸を見掛けたあの日以来、街中では至る所で鼠の死骸を見掛けるようになった。街の住人はその様を気味悪がったけれども、もうリンネひとりの手には負えない状態だった。
 誰か手伝ってくれる人はいないだろうか。そう思っても、死骸に直接触れないようにするための革手袋を持っていない人に下手に頼むわけにはいかない。この街で、リンネの手助けをしてくれるような人で、高価な革手袋を持っている人はどれだけいるのだろう。
 ひとりではどうしようもない、けれども助けを呼べない。鼠の死骸を処理をしながら調剤の仕事もしているので、あまりの忙しさに最近は家事のいくらかをイーヴに任せている状態だった。
 そんな状態になってそんなに間を置かないある日のこと、慌てた様子の婦人がイーヴの元を訪れた。
「先生、うちの人がすごい熱を出しちゃって、診てくれませんか」
 いささか興奮気味の彼女に、イーヴはゆっくりとした口調で返事を返す。
「すごい熱、ということは、ここまで来るのも苦しいほどなのですね。
わかりました。お伺いしましょう」
「ええ、ええ、お願いします。
立つのも苦しくて痛いと言っているんです」
 それを傍らで聞いていたリンネは、一体どんな病状なのだろうと思う。痛いと言っているのなら、痛み止めでテリアカを用意した方がいいのだろうか。そんな事を考える。すると、案の定イーヴはリンネにこう言った。
「リンネ君、すぐにテリアカを調合してくれ。
痛いと言っているのなら、とりあえずそれを飲ませて様子を見るのが良いだろう」
「わかりました。いま作ってきます」
 リンネは急いで調剤室に向かう。調剤室にある鍋に、薔薇水やすりつぶしたヘンルーダの葉、塩、くるみ、乾燥したイチジク、シナモン、そんなものを量りながら入れて沸騰するまで火を入れる。甘い香りのするそれを漉しながら、茶色いガラス瓶に入れてコルク栓できつく口を締めた。熱を持ったその瓶を持ち歩くために、いつも使っている布巾で包み、それを手にしてイーヴの元へと戻る。
「用意は出来たね」
「はい」
「では、このご婦人のお宅に伺おう」
 ふたりは家を出て、しっかりと玄関の鍵をかける。それから婦人の後を付いて歩いて行った。

 明るい日差しが照らす街中は、いままさに温かな春を迎えていて、道行く人の表情も明るい。けれども、やはり時折見掛ける鼠の死骸を目にした人は、忌々しそうに目を背け見なかった振りをする。
 この時期は、毎年病人が減るものだけれど。リンネはそう思ったけれども、行く先々で見掛ける鼠のことを考えると、薄ら寒いものを感じた。
 婦人の案内で辿り着いたのは、小綺麗な集合住宅だった。そこのちいさな入り口から中へ入り、階段を上る。婦人の家は二階の角にあった。ドアを開けた婦人に招かれ中に入ると、その中は台所と居間と寝室がふたつと、四部屋あるようだ。婦人は左手の、本当にこの建物の角にある寝室へふたりを案内する。
「失礼いたします」
 イーヴがそう声を掛け、リンネも軽く頭を下げて寝室に入る。すると、そこにはひとりの男性が苦しそうな表情でベッドに横たわっていた。
 イーヴが男性に断りを入れ、掛布を捲って体の様子を見る。見てみると、すぐにわかるほど首の付け根が腫れている。他に異常はないかと全身も確認すると、脇の下、それに鼠径部も大きく腫れていた。そして婦人のいうとおり、体全体が平常よりも熱を持っていた。
 イーヴが患者を診ている間に、リンネが婦人に訊ねる。
「この方はいつ頃からこの様な様子でしたか?」
「えっと、昨夜急に具合が悪くなって、吐いたり体が痛いと言ったり、ほんとうに突然こうなったんですよ」
 こんな性急に症状が出るなんて、一体どんな病気なのだろう。リンネの心当たりとしてはコレラが挙げられるのだけれども、コレラの症状は出ていないようだった。
 突然、イーヴが固い声でいった。
「リンネ君、テリアカは持ってきているね」
「はい。ここに」
「今すぐスイバを摘んできてそれに混ぜるんだ」
 それを聞いて、リンネの口の中に苦味が広がる。テリアカにスイバを混ぜた薬。それはつまり……
「すいません、少しの間これを持っていてくれませんか」
「え? はい」
 婦人にテリアカの入った暖かい瓶を手渡し、リンネはその家を飛び出した。この近くでスイバが生えているところは、河辺の茂みだ。婦人の家から少し離れた場所にある河辺に、走って向かう。道行く人が驚いた顔で、今度は何があったのだろうという様子だ。それにも構わず、河辺に着いたリンネはすっと草むらに立っている、先端の赤いスイバを数本手折って握り、また婦人の家へと戻っていった。
「戻りました」
 婦人の家に着くなり、息を切らせて瓶を受け取る。それから、台所と鍋と布巾を借りて作業を始めた。瓶の中のテリアカを鍋に注ぎ、その中に布巾を使って搾ったスイバの汁を入れる。それをよく混ぜて暖め、婦人に持って来てもらったカップに注ぎ込む。
「この薬で治ると良いのですが」
 そう言って、カップをイーヴに渡して患者に少しずつ与えてもらう。
 患者がすっかり薬を飲み終え、これから容態が良くなるだろうかとしばらく見ていると、患者の男性は突如目を見開き、大きく口を開いて、激しく息を吐いてから息絶えた。
 黙って首を振るイーヴを見て、婦人は泣き崩れる。
「早めに、埋葬してもらった方がいいでしょう」
 そう言い残して、イーヴとリンネはその家から立ち去った。

 家へ帰り、ふたりは緊張した面持ちで居間で対面していた。暫しの沈黙のあと、イーヴが苦々しく口を開く。
「……最悪の事態だ」
 リンネも黙って頷く。ふたりとも思ってもみなかったのだ。まさかこんなに突然、黒死病の患者が現れるだなんてことを。

 

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