第十一章 祈りはあるか

 一度黒死病にかかれば生き延びられない。医者達はもちろんのこと、街の人々もそれはすでに察していた。あの手紙にあったように、ほんとうに蚤が黒死病を運ぶのであれば、その蚤さえ殺し尽くせば事態は好転するはずと、医者達は患者の家族からでもと、掛布や衣類の消毒を勧めはじめた。死亡した患者の部屋はまず石灰を撒いて消毒し、その数日後にベッドで使っていた掛布や衣服、部屋中の布類を熱湯やアイロンで熱を加えるようにと、そう指示を出した。
 黒死病が流行り始めてからもう数ヶ月が経った。もう夏の盛りで、昼間はさんさんと太陽の光が街を照らしていた。道行く人は、黒死病が流行る前と様子が変わっていた。着飾って娯楽に熱中する人や、薄暗い酒場の中でうなだれながら酒を飲んでいる人、人を避けるように家からほとんど出なくなってしまった人。誰もが以前とは違って極端な行動を取るようになっていた。
 死者の出た家から、有志で集まってくれた手伝い人が埋葬するために遺体を運び出す。それは街のいたるところで見掛けるもので、彼らが道を通ると人々は顔を背けたり家の窓をぴたりと閉めたりする。
 あまりにも死者が多い。この夏の最中、死者ひとりひとりのために葬儀をしていてはその間に遺体が腐ってしまうので、とりあえず街の中心部から離れた野原に沢山の墓穴を掘り、そこに遺体を納めていく。死者が天国へ行くための祈りは、当然ひとりずつではなくまとめてあげられていた。
 遺体を墓穴まで運ぶ仕事は、医者達も時折やっていた。リンネも、先程死亡を確認した遺体を担架で運んでいた。
 街の人に避けられ、疎まれながら遺体を運ぶ道中、この先のことを考えた。明日にでも黒死病が消え去ってくれればそれが一番良いけれども、そうはいかないだろう。だとするならば、教会で見た新患の数の推移から推測するに、墓穴を掘るのが追いつかなくなるのは時間の問題だ。数を掘ると言うだけのことではない。人ひとりを葬るだけの浅い穴をいくつも掘っていたら、いずれあの野原はいっぱいになり、入りきらなかった遺体が積み上がることになるだろう。
 一体どうするべきか。いや、どうするべきかはわかっている。わかっているけれども、自分の倫理観がそれを受け入れがたいのだ。

 墓穴の並ぶ野原に辿り着く。墓穴を掘っている男達に案内されて、今運んでいる遺体を納めるべき場所へと行き、そっと遺体を穴に入れる。その上にすぐさま石灰がかけられ、土が被せられる。そこには天に昇るための祈りはなかった。
 どこからともなく鐘の音が聞こえてきた。時を告げる教会の鐘だ。強い風が吹く。砂煙が舞った。それから、朗々とした声が聞こえてくる。声の方を向くと、土が盛られた沢山の墓を目の前に、教会からやってきたであろう神父様が、聖書を持ち詩編を読み上げていた。
 これが、この野原に葬られた人々に与えられる祈りだ。自分ひとりのためでなく、大勢の、ひとかたまりの一部として扱われる。それは神の子羊として正しいことなのか、それとも悲しむべきことなのか、リンネにはもうわからなくなっていた。もし自分が黒死病にかかって死んだとして、その時に祈りが欲しいだろうか。自分ひとりのためだけの祈りが……

 運んでいた遺体の埋葬が終わり、また患者達の往診をする。今日診た患者は、まだ息があった。けれどもそれを希望というのはあまりにも無責任で、楽観的すぎた。この残った息づかいを生きる希望に繋げられれば、それ以上に良いことはないのに。
 いつものように効くかどうかわからない薬を患者に飲ませ、次の家へ行く準備をする。そう、その家をお暇する前に、家の人に布類の消毒をしっかりするように言い含めてから。

 その日の往診を終え、家に帰る。マントとマスクを外すと、ようやく自我を取り戻した心地になる。
 力なく居間の椅子に座り込むと、玄関を開けてイーヴも帰ってきた。イーヴはマントとマスクを外すとリンネに言った。
「これから医者のみんなで教会に行くから、準備なさい」
「教会ですか? わかりました」
 なぜこんな時間に教会へ行くのだろう。不思議だったけれども、教会は緊張と絶望から心を救ってくれる場所だ。医者達も神様に祈りたいのだろうと、リンネは服装を正してイーヴとともに家を出た。

 星が輝く夜空の下を歩き、教会へと行く。家々の窓は、ランプの光が漏れているところがあったり、真っ暗だったりそれぞれだけれども、真っ暗な部屋は誰かが寝ているだけでなく、誰かが亡くなった部屋も少なくないだろう。
 教会に着くと、黒死病の装束を着ていない医者達が集まっていた。聖堂の中には蝋燭が灯され、ほのかな灯りが祭壇を照らしていた。
 集まった医者達に、長椅子に座っていた神父様が声を掛ける。
「さて皆さん、私に相談というのは何でしょうか」
 相談、と言うのはリンネも初耳だ。他の医者の様子を窺うと、一番年嵩の医者が神父様に言った。
「このままでは遺体を葬る墓穴が足りなくなります。
つきましては、ひとりにひとつの墓穴ではなく、大きな穴を掘ってそこにまとめて埋葬したいのです」
 それは、リンネも考えていたことだった。けれども遺体をその様に扱って良いのかどうか、いや、その様に扱ってはいけないと思っていたのだ。
 神父様がやりきれないという顔をする。それから、暫くの沈黙ののちに口を開いた。
「野ざらしにされて朽ち果てる死者が出るよりは、その方がいいでしょう」
 きっと、神父様もそれは難しい判断だったのだと思う。けれども事態は切迫しているのだ。
 神父様にこの事を相談したということは、他の医者も戸惑いを感じていた証拠だ。明日から、あの野原に大きな穴が掘られるのだろう。
 まるで地獄の釜のような。

 

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