今日も病死した患者を大きな穴へ運び放り込む。この作業も一日に何度やっているだろう。他の医者はどうかわからないけれども、少なくともリンネは、もう数えることを諦めていた。この穴に死者を運んでくるのは医者だけではなく、有志の人々も手伝っているので、自分が運び込んだ数だけで病死者の全体数を把握するのは難しいのだ。
病死者の数を常に正確に把握しているのは、教会で報告をまとめている神父様達聖職者くらいだ。医者達は時折、聖職者達に様子をうかがうことで数を把握していた。
いくら石灰を撒いて消毒しているとは言え、大きな穴の中に沢山の遺体が積み重なる様は見ていて気が参ってくる。それでも、この大きな穴が掘られたばかりの頃に比べればだいぶ慣れたけれども。
遺体を穴に放り込んだリンネは、担架を持って次の往診に向かう。死体が積み重なっていくところに慣れてしまうのもいかがな物だろうと思いながら。澱んでいない空気を吸いたくなって思い切り息を吸う。すると口と鼻の中に入ってくるのは、マスクの嘴に詰め込んだ薬草の香り。こうなるのはわかっていたのにその香りで一気に疲れを感じた。
ふと周囲を見渡す。以前と違う何かがある気がした。いや、正確には『ある』のではない。『ない』のだ。それに気づいたリンネは、咄嗟に道の片隅や物陰を覗き込む。かつてあれほど大量にいた鼠の死骸がひとつもないのだ。
鼠が黒死病を運ぶなら……そう思ったリンネは、家に帰ったらこの事をイーヴに報告した方がいいだろうと判断した。
陽もすっかり落ちた頃、ようやく家に帰り着いたリンネは、少し遅れて帰ってきたイーヴに鼠のことを報告した。
「ほんとうかい? ほんとうに鼠が」
「鼠の数は記録していないと思うので比べようがありませんが、鼠の駆除を頼んでいる方に訊いてみてもいいかも知れません」
「鼠がいなくなったのなら、これは良い兆しだ。もっとも、鼠が黒死病を運んでいるという話が本当なのならだけれどね」
その辺りの信憑性についてはまだ医者達は納得しているわけではない。けれども旧来のやり方でどうにもならなかった経験があるから、新しい考えをとりあえず採用しているといった状態なのだ。
自分の分とイーヴの分、ふたり分のマントにアイロンをかけ終わったリンネは、次は夕食の支度をしようと台所の方を向く。すると、イーヴが優しくリンネを椅子に座らせてこう言った。
「いつも君にばっかり食事を頼っていたら負担になってしまうからね、今日は私が作るよ」
「えっ? でも、イーヴさん」
「パンを切ってチーズを乗せて焼くだけなら、私だってきっとできるさ」
戸惑うリンネにウィンクをして見せて、イーヴは台所へと入って行ってしまった。確かに、このところ作る食事は切ったパンにチーズや、買ってあったら野菜か肉を乗せて焼くだけという簡素なものだった。特に意識していなかったけれども、心配をかけてしまっていたのだなと思うと頬が熱くなった。
少しの間待っていると、チーズの香ばしい匂いが漂ってきた。イーヴに台所を任せても大丈夫だったと安心すると、ふと窓の外が目に入った。このところは夜になってもオペラの公演を観に行く着飾った人々を余り見掛けなくなった。その理由はよくわかる。一番の花形の歌手がいなくなったというのもあるだろうけれども、黒死病の患者が出た場所へ行くのが、皆こわいのだ。
翌日、リンネは鼠の数は実際どうなっているのだろうというのを確認する為に、往診前に鼠駆除の統率を任せているパスカルのところへ行こうと早めに家を出た。もう馴染んでしまったマスクとマント。それを身につけたままパスカルの家へと行くと、ドアをノックする前に老婦人が玄関から出て来た。
「ああ、お医者様! 丁度良いところへ来てくださいました!」
「どうなさいました?」
丁度良いところ、ということは大体察しは付く。黒死病の患者が出たのだろう。老婦人に話を聞くと、息子の首の周りが腫れて、高熱を出しているという。それを聞いて、リンネは少なからずも動揺した。息子というのはパスカルのことだろうか。自分が鼠駆除を任せた、あの人のよい、頼りがいのあるあの青年だろうか。老婦人に案内され家の中に入る。寝室ではすっかりやつれた様子の青年が横たわっていた。その顔には見覚えが有る。間違いなくパスカルだ。
「先生、お願いします」
リンネは持っていた杖で掛布を捲り、首の付け根だけでなく脇の下、鼠径部の様子を見る。だいぶ腫れているようだ。
青年がゆっくりとリンネの方を向いて口を開く。
「先生、聞いて下さいよ……」
苦しげにそう言うパスカルに、リンネはなにも言えない。これから彼はなにを言おうとしているのか、ぢっと耳を澄ませる。
「俺、街の鼠を……全部やっつけたんですよ……みんなで……
先生、リンネと知り合いでしょう……リンネに俺が自慢してたって、言ってやって下さいよ……」
彼はほんとうに、この街から鼠を全て排除したのだ。その仕事のせいで今の状態があるのかも知れないのに、彼はリンネを責めるようなことは一言も言わなかった。その言葉を伝えたい相手は、今目の前にいる。そのことをリンネは言い出せなかった。
「わかりました。お伝えしておきます」
パスカルの言葉にそう返し、リンネはマントの中からアヘンチンキを取りだして少量パスカルに与える。そうしてしばらくすると表情が穏やかになった。
この薬は一時的に痛みを取り除いてくれるけれども、回復に役立つものではない。パスカルはこのまま緩やかに死んでいくのだ。その事実が、今までの他の誰の死よりも重く感じられる。
今だけはマスクをしていて良かったと思う。この涙を彼には見せたくなかったから。