第十五章 薬の限界

「気のせいだろうか、このところ一日あたりに耳にする黒死病の発症者数が減っている気がする」
 ある日の朝食時、難しい顔をしたイーヴがリンネにそう言った。
「減って……きていますか?」
 イーヴの言葉に余り実感が無いリンネは、頭を傾げて考え込む。手元からチーズの乗ったバゲットが落ちそうになった。
 慌ててバゲットを口に詰め込むリンネに、イーヴがこう続ける。
「気のせいかも知れないけれど、今日は往診の前に教会に行って確認してみないかね。
気のせいなら頑張るだけだし、気のせいでないのなら、この先に希望が持てる」
「そうですね。それが事実だとしたらまだ頑張れますし」
 本当に一日あたりの発症者が減ってきているのか、半信半疑だったけれども、リンネはにこりと笑ってイーヴに返事をした。

 食事が終わったふたりは、いつものように嘴に薬草を詰め込んだマスクを着けマントを被り、教会へ向かった。教会での用事が済んだ後、すぐ往診にいけるよう準備を整えての出発だった。
 街中を歩いていると、時折家の中の掃除をしている様が目に入る。それはイーヴやリンネも訪れたことのある部屋だったりで、不幸にも黒死病に冒され亡くなった人の部屋を、また使えるようにしているのだろう。いつまでも部屋を開けておくわけにはいかないのはよくわかるし、患者が亡くなった後の部屋は石灰などできちんと消毒しているはずだから、使っても大丈夫だと思っているのだろう。
「そういえばしばらく、礼拝には行っていないね」
 しみじみとそう呟くイーヴに、そう言えば最後に礼拝に行ったのはいつだったのだろうとリンネは考える。思い出せる限り、少なくともふたつきは礼拝に出ていなかった。
「全てが終わったら、礼拝に出られるでしょうか」
 リンネがそう言うと、イーヴが優しくリンネの背を叩く。
「もちろんだよ。その日のために今は頑張らなきゃいけないんだ」
 その言葉に励まされる。また神様の祝福を受けられるその日を目指そうと決意を固くした。
 言葉少なに道を歩き、教会に辿り着く。聖堂の中に入ると、神父様や他の聖職者が書類をまとめているようだ。手伝いの街の人はまだ来ていない。
「おはようございます」
 リンネとイーヴが声を掛けると、神父様達が顔を上げて一礼をする。それから、神父様がやって来てふたりにこう訊ねた。
「朝早くからどんなご用ですか?
まさか、夜の間にまた亡くなった方がいたとか……」
 そう言った話にはもう慣れてしまったのか、顔を曇らせることもなく、けれども胸の前で十字を切ってそういう神父様に、イーヴがこう訊ねた。
「実は、一日あたりの発症者数が減ってきている気がするんです。それを確認したいのですが、よろしいですか?」
 すると、神父様ははっとした顔をして他の聖職者が整理している書類を確認しに行った。それから、きっと記録が書かれているのだろう書類を持ってイーヴとリンネの元へ戻ってきた。
「あなたのおっしゃるとおりです。ごく僅かずつではありますが、減っているようです」
 そう手渡された書類をイーヴが読む。彼の表情はわからない。頷いたかと思うと、今度はリンネにその書類が回ってきた。ずらりと並んだ数字をぢっと睨み付ける。死者数の推移と、発症者数の推移を書いた数字を根気強く見ていくと、確かに、日ごとに若干の上下はあるけれども、平均としては発症者数が減ってきているようだった。
 ふたりは頭を下げて神父様に書類を戻す。
「ああ、神様が救いを下さるのですね……」
 そう言って指を組む神父様を見て、ふたりも胸の前で十字を切った。

 教会から出て、リンネは途中までイーヴと道を共にした。その道すがらリンネは固い口調でこう言った。
「イーヴさん。発症者数が減ってきているのは喜ぶべきことですが、これからまた別の問題が出て来ます」
「それはなんだね」
「黒死病の薬の材料であるスイバが、そろそろ採れなくなります」
 それを聞いて、イーヴは溜息をつく。
「せめて、それだけでも他の街から買うことができたら」
「難しいでしょう。もう夏の盛りも過ぎましたし、どこの街でもあとは枯れるばかりです」
 薬がなくなったら、どうやって患者を治療すれば良いのか、ふたりにはわからない。けれども、そもそも薬が効いていないのだとしたら? リンネは一瞬、その可能性を考えた。

「リンネ君、他の薬を考えることはできるかい?」
「そうですね、やってみます」
 そのやりとりをして、ふたりは別の道へと別れる。患者の元へと向かう途中、リンネはあらためて、黒死病の患者に与えるべき薬を考えた。

 その日の往診を終えて、夜中に家に帰って来たリンネとイーヴは薬をどうするかという話をしていた。
「他の医者も、薬のことで困っているようだったよ。なにか、良い案は浮かんだかい?」
 イーヴの問いに、リンネははっきりと答える。
「アヘンチンキを与えましょう」
 それを聞いたイーヴは目を見開く。
「な、なにを言っているんだ、あれは」
「そう、あれは麻酔です。痛みを取る薬です。
患者を回復させる事は出来ないかも知れませんが、適量を与えるのであれば痛みを取り去ります。
今まで与えてきた薬は本当に効果があったでしょうか? もしかしたら無かったかも知れません。それならば、せめて最期痛みを取り去る方が得策ではないでしょうか。
流行が去るその日まで、やり過ごすんです」
 リンネの言い分を聞いて、イーヴは一瞬怒鳴り声を上げるかのような素振りを見せた。けれども、すぐに頭を振り、腕を組んで考え込む。そしてこう言った。
「それが最善だろう」

 

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