冬休みが終わり、春休みも過ぎ、新年度が始まった。
一年時は順調に課題を片付けていて、講師からの評判も良かったカナメだが、 二年時に入りどうしても理解の出来ない授業があった。
それはマーケティング、つまりは市場調査等、情報を集めなくてはいけない課題。
マーケティングを元に作らなくてはいけない資料が沢山有るのだが、どうしても、 どうにもカナメには情報を集めると言うことが出来なかった。
他の生徒は締め切りを守っては居なかったが、何とか課題を提出し、確実に課題を進めていた。
それなのに、一年時は真っ先に、締め切り前に課題を提出していたカナメが、一向に課題を提出できない。
日を追う毎に顔を青くして講義を聴いてノートを取るカナメのことを、講師は不思議そうに見ていた。
結局、マーケティングの課題を一回も提出すること無く前期の授業が終わってしまった。
勿論、単位が取れている訳が無い。
『不可』の付いた成績表を見て、カナメは自宅のちゃぶ台の前でうなだれる。
「どうしよう……
マーケティング、必修なのに……」
じわりと視界が滲む。
今まで、出来ないと思ったことは沢山有ったし、勿論やっても出来ないことは有った。
けれども、自分が志した事で、本当にやっても出来なかった事と言うのはほぼ無いと言って良い程だったので、 突然突きつけられた『不可』と言う現実に、耐えられなかった。
暫く涙が流れるままにして居たら、右目が痛んだ。
そう言えば、マーケティングの授業が理解出来ないと思い始めた頃から、右目の視界が悪くなることが頻繁に有るし、 突然痛む事もしばしば有る。
何はなくとも、今日から夏休みだ。マーケティングの単位に関して話が有るという事で、 講師から呼び出しのかかっている日を外して、眼科に行かなくてはと、そう思った。
その日の夕食は、冷めた白いご飯がお茶碗一杯分と、梅干しだけ。
このところは料理をする気力も、食べる気力も殆ど湧かず、取り敢えず食べられれば良いと言った感じでご飯を炊き、 梅干しを添えただけという食事が続いていた。
週に一回、心配した美夏が夕食を作りに来てくれては居るのだが、折角作ってくれた手料理を食べても、 美夏が帰った後に戻してしまうと言う状態が続いた。
こんな調子が続いていると言うことを、美夏は勿論、なかなか会えない勤にも話していない。
いっそこのまま死んでしまえたら、楽なのかもしれない。
一人で抱えているのは辛い事、けれども他の人からすれば取るに足らないで有ろう事をずっと一人で抱え込んで、 冷たいご飯を飲み込んだ。
その翌日、夏休みに入ったカナメはどうしているかと、夕方頃に美夏がカナメの部屋に訪れた。
「カナメ、ちゃんとご飯食べてる?」
「うん、ちゃんと食べてるよ」
やつれた顔にぎこちない笑みを浮かべ、そう答えると、美夏が冷蔵庫の中を見せて欲しいという。
何故そんな事をするのか疑問に思ったけれども、カナメは素直に冷蔵庫の中を見せる。
美夏が、レシピが沢山貼り付けられている冷蔵庫のドアを開くと、中はがらんどうで、 申し訳程度に梅干しが置かれているだけだった。
「……カナメ、やっぱり食べて無いんじゃない」
厳しさを含んだ声で美夏がそう言うと、カナメがしゃくり上げながら言った。
「ごっ、ごめん……
でも、なんかもう、ごはんなんか食べないで、このまま死んじゃったら良いのにって……」
美夏の手の平がカナメの頬を打ち、言葉が途切れる。
それから、美夏の腕に抱かれ、耳元で語りかけてくる言葉に耳を傾けた。
「死ぬなんて気軽に言わないで。
あなたの命は日本国が、私達が守ってるの。
この国を守る軍が、あなたの家族が、友達が、私が、みんながあなたを守ってるの。
あなたの命は重いのよ」
カナメは何も答えない。
「いつから、『死んだ方が良い』って思ってた?」
抱きしめる力が強くなるのを感じながら、か細い声で答える。
「……授業が始まって、一ヶ月ちょっと経ったくらいから……」
「学校にはちゃんと行けてた?」
「……行こうと思っても、怖くて行けない事とか有った……」
「そっか」
美夏が身体から片腕を外した後、携帯電話で何処かと話しているのを、 残った片腕に抱かれながらぼんやりと聞いているカナメ。
「……はい、明後日の金曜日の午前で。はい……」
話の流れから何かの予約を取っているというのはわかったが、何の予約かまではわからない。
短い通話の後、美夏が優しい声でカナメに言う。
「金曜日、病院に行こう。
私も付いていくから」
それを聞いて、カナメは少し驚いたような声を上げる。
「え?病院って眼科?
偶に目が痛くなるの、話したっけ?」
すると今度は美夏も驚いたような声を出す。
「え?目が痛くなるの?
それだと眼科も行かなきゃいけないかな?
今電話したのは、心療内科」
心療内科という言葉を聞いて、カナメはようやく自分が普通で無い状態なのだと言うことに気付く。
その事がショックな様に、でも何処か腑に落ちる様に感じられて、カナメは美夏に取り留めのない話をする。
その中で、美夏が作ってくれた料理も戻してしまっていたことも話した。
泣きながら何度も謝るその言葉を、美夏はカナメを抱きしめながらじっと聞いていた。
翌日、心療内科に行く前に眼科に行っておこうと思ったカナメは、近所の眼科へと訪れた。
本を読みながら、長い時間狭い待合室に座り、ようやく受けた診察では、左目は勿論右目にも異常が無いと診断された。
異常が無いのなら、ただの気のせいなのだろうか。
不安は残るけれども、医者が問題ないと言うのなら大丈夫なのだろうと、処方された目薬だけを持って眼科を後にした。
更にその翌日、カナメは美夏と一緒に、美夏が予約していた心療内科を訪れた。
細い路地を少し入った所に有る、こぢんまりとした三階建てのクリニック。
人の多い待合室で、どの様な症状があるのかの簡単な問診にチェックを入れていく。
チェックを入れるだけでもうんざりしてしまう様な数がある問いに答え受付に渡すと、二階の待合室へと案内された。
そして待つこと暫く。
付き添いとおぼしき人と話している患者が何組か居る中、カナメも美夏も、ずっと無言だった。
ただじっと俯いているカナメの手を、そっと美夏が握っている。
そうしてようやくカナメの名前が呼ばれ、椅子から立ち上がり、診察室の扉に手を掛ける。
頼りない視線を投げかけながら、カナメが呟く。
「美夏も、一緒に来て」
確かに、慣れない診療科目の診察となると不安だろう。美夏はそう思ったらしく、 カナメの後について診察室へと入った。
診察室の中で、カナメは美夏の助けを借りながら、自分の状況を医者に話した。
その時間が長かったのか、短かったのか、カナメにはわからない。
ただ、医者がカルテに何行も文字を書いているのを見ていた。
途切れ途切れながらも話し終わった後、処方箋が入れられたカルテのファイルを渡され、診察室を出る。
それからまた暫く一階の待合室で待った後、何とか会計も済ませ。
すぐ近くにあるという薬局への道すがら、美夏がカナメの背中を軽く叩いて言った。
「何とかなるって」
そう言われても何とかなるとはカナメには思えなかったが、美夏が応援してくれるのなら、 少しずつでも前に進める気がした。