後日談二 進むこと

 夏休みの間、始めの内は週に一回、その後は二週間に一回病院に通い、 処方された薬を指示通りに飲む生活をして居たカナメは、なんとか前と同じように食事が出来る様になり、 だいぶ顔色も良くなった。

 しかし、それでも今後の学校生活に対する不安は消えなかった。

いっその事、このまま中退してしまうことも考えたが、自分で選び、 家族や美夏や勤が応援してくれているこの道を諦めたくなかった。

 

 夏休みに入ってすぐの頃、マーケティングの授業を受け持っている講師と、 単位の取得について話合う機会が有った。

講師は、デザインや販売などのアパレル職に就くのなら、 マーケティングの方法を今の内に学ばないと不利だと言っていた。

けれども、カナメはマーケティングはどうしても出来ない、理解出来ないと講師に説明した。

 カナメがこの学校に入ったのは、アパレル系の職に就きたいからでは無く、 純粋に自分で服が作れる様になりたかった。ただそれだけの理由からだ。

就職に関しては、アパレル以外の職に就くつもりで居る。

その為に、必修で無い一般教養の単位も複数取っているし、ワープロソフトや表計算ソフトが使いこなせる様に、 何とか独学で勉強もして居た。

 てっきりカナメがアパレル職に就くつもりで居ると思い込んでいる講師に、言葉をつっかえさせながら、 その事を説明する。

緊張で声を震わせ、顔を真っ青にしながらも自分の意思を伝えたカナメを見て、講師は考える素振りを見せ、こう言った。

「実はね、柏原君みたいに、ちゃんと授業に出ててもマーケティングがどうしても出来ないって言う生徒、 偶に居るんだよ。

こっちとしてもなるべく前途ある学生には単位をあげたいんだけど 、提出物を何も出してないのに単位は出せないんだよね。

だから、そうだね。他の課題やって貰おうか」

 講師のその提案に、カナメの目がじわりと滲む。

カナメが出来る範囲のことで、最もマーケティングに近い事は何か。その事を二人でじっくりと話合って、 夏休み中にその課題に取り組むと言うことで話が付いた。

 

 お盆も過ぎて暫くした頃、カナメは勤と会う約束をして居た。

前期の間にも何回か誘われはしていたのだが、誘いに乗るだけの気力が無かったので、勤に会うのは半年振りか、 それより間が空いているくらいだ。

電気街の駅前で待ち合わせをしているのだが、今回は準備に手間取ってしまい、時間ギリギリに到着する。

すると、駅前では既に勤が立っていて、手を振っていた。

「よう、久しぶり」

「久しぶり。ごめんね、待たせちゃって」

「いや、時間通りに来ただけだろ?

気にすんなって」

 少し申し訳なさそうな顔をするカナメだが、勤にわしわしと頭を撫でられ、笑顔を浮かべる。

早速二人で駅から少し離れた所に有る本屋へと向かう。

狭めの間取りで居ながらも、エスカレーターが設置されている縦長の本屋。そのエスカレーターに乗りながら、 勤がカナメに訊ねた。

「最近、調子どうだ?」

 カナメの二段上に立ち、背を向けたまま掛けられた言葉に、申し訳なさそうに答える。

「病院で貰ってる薬飲んでるから、少しましになったかな。

でも、なんか夏休み終わってから学校行くの、ちょっと怖い」

「そっか」

 そのままエスカレーターを降りるまで二人とも何も言わず。

目的のフロアに着いてから、お互いどんな本を探しているのかの話に移る。

カナメはそのフロアで文庫本と新書を一冊ずつ買い、勤は下のフロアでハードカバーの本を一冊買い、 そのまま降りていって本屋を出た。

 

 二人は買った本を持ったまま、また駅前へと向かい、ファーストフード店に入る。

カナメはチーズバーガーを一個と、アイスティー。

勤は、ハンバーガーと、チーズを載せて焼いたポテトと、サラダ、それからアイスコーヒー。

それぞれ食べ物を持ってカウンター席について食べ始める。

 食べながら、勤がカナメに訊ねた。学校に行くのに、何が不安なのかと。

カナメは口の中に入ったチーズバーガーを飲み込み、少し間を置いてから口を開く。

「夏休みの課題が、出来なくはないけど、上手く出来なくて。

何度やり直しても出来上がらない気がして、このままじゃ先生が折角チャンスをくれたのに、失望されそうで、 正直言って逃げたい」

 それを聞いた勤は、溜息をついて複雑そうな顔をする。

「あのさ、お前、高校の時、漫研の他の部員になんて言ってたか、覚えてるか?」

「え?締め切り厳守……ってのは常々言ってたけど」

 突然高校時代の話を出されて驚くカナメの頬を軽くつねり、勤が言葉を続ける。

「完璧を目指すよりまず終わらせろ。そう言ってただろ?

お前も、できなかないんだったら、まず終わらせろ。結果については、その後考えろ」

 その言葉に、高校の時の事を思い出して少し恥ずかしい気持ちになったのか、カナメの頬が赤くなる。

「そうだね。まず終わらせなきゃ」

「本当にどうしようも無くなって逃げるしか無くなったら、 その時は逃げるのを手伝うから。逃げたくないと少しでも思う内は逃げるな」

「うん……ありがと」

 頬を染めたまま笑顔を浮かべたカナメの顔を見て、勤もなにやら照れた様な顔をして。

これを食べ終わったら次はどこを見に行こうかなどと言う話をしたのだった。

 

 そして夏休みが終わり、カナメは何とか終わらせた課題を、マーケティングの講師に提出した。

この課題の出来で、本当に単位が貰えるのだろうか。精一杯やったつもりだけれども、 完璧にはほど遠い。そう思っていた。

でも、ここで提出しなかったら、単位は確実に貰えない。課題を渡した後、震える足で講師控え室から出る。

 可か不可か、それがわかるのは年が明けて、桜が咲く頃だ。

 

 その年度の他の授業はたまに休みはしたけれども概ね出席し、成績表が渡される日が来た。

上から順に、評価を確認していく。

視線がマーケティングの項に近づくにつれて、脂汗が滲み、右目が痛む。

 そして、マーケティングの項に書かれていた評価は、『可』では無かった。

 

 学校での用事が終わり、カナメはお昼ご飯も食べずに家へと帰り、この日のことを心配し、 有休を取って家で待機していた美夏の元へと、荷物を置いた後すぐさまに向かう。

呼び鈴を鳴らし、心配そうな美夏に迎えられ、気まずそうに単位の事を訊ねてきた美夏に成績表を見せた。

「……『可』、じゃなかったんだ」

「うん。先生、どうしても『可』って付けたくなかったみたい」

 二人は成績表に落としていた視線を上げ、笑顔を交わす。

「僕、『合格』なんていう評価初めて見た」

「崖っぷち感凄いけど、単位貰えて良かったじゃ無い!」

 玄関先で抱き合い、二人はそのまま離れずに部屋まで移動する。

 それから、カナメを座布団の上に座らせた美夏が、お祝いだと言ってパンケーキを焼く準備を始めた。

粉を牛乳で溶く音の後、撥ねる油の音が聞こえ、数分置きに微かな柔らかい音が聞こえる。

暫くして美夏が持って来たのは、陶器の大皿の上に、何段にも重ねられたパンケーキだった。

 

 二人で色とりどりのジャムを広げ、柔らかく香ばしいパンケーキに載った華やかな味を楽しむ。

その中で、三年時の課題の話になった。

 三年次は、一般教養の講義も少なく、実技は卒業制作だけだ。

卒業制作はウェディングドレスを作るのが通例とのことなので、カナメもウェディングドレスを作るのだろう。

 ふと、カナメが顔を赤くしておずおずとこう言った。

「卒制のウェディングドレス、美夏のサイズで作って良い?」

 それを聞いて、美夏も顔を真っ赤にする。

それから、声も出せずに頷いて、カナメの手を握る。

「着て貰える様になるまで凄くかかると思うけど、僕、頑張るから」

 去年のこの時期以来、ずっと無かった強い声。一生懸命なカナメに応える様に、そっと美夏が顔を寄せる。

二人とも緊張した面持ちのまま、そっと瞼を閉じ、初めてのくちづけを交わした。

 

†fin.†