第一章 通りがかりのパティスリー

 まずい、太った。
 このところ仕事を定時で上がれるようになって、食事に時間を使えるようになってついつい食べ過ぎているようだ。しかも悪いことは重なるもので、仕事が忙しかった時に運動量が減ったまま、このところも過ごしている。
 食べる量が増えて、運動量は減ったまま。それで太らないはずがない。体重計から降りて、改めてお腹と二の腕の肉をつまむ。もにもにしている。
 このままではいけないと、私はすぐさまに部屋着から以前使っていたトレーニングウェアに着替える。もしかしたらトレーニングウェアすら着られなくなっているかもしれないと思ったけれども、無事に着られたのでその点はひと安心だ。
 ダイエットは明日から。などという甘いことは考えていられない。思い立ったらすぐさまに行動に移すのが大切だとなにかで読んだ記憶がある。先送りにすればするほど億劫になるというのは仕事で痛感したので、ダイエットもすぐさまにはじめるに超したことはない。
 とはいえ、鈍った体でいきなりハードな運動はできない。まずはできるだけハードルを低めて、習慣化しやすくするのが良いのだ。
 今の体でもはじめやすい運動と言えば、ウォーキングだろう。特に機具が必要なわけでもないし、靴もとりあえずは普段履いている履きやすい靴で行けばいい。続くようなら、ウォーキングシューズも買いたいけれど。
 そう、今日は休みだからと、お昼ごはんもつい食べすぎてしまった。ごはんを食べたあとに体重を量るというのもどうかとは思ったけれど、異変に気づいたのが食べたあとなのでそれは仕方がない。なるべく早く確認して、対策を打ちたかったのだ。
 ウォーキングに出るために、最低限の荷物をウエストポーチに詰める。万歩計代わりのスマートフォンと、途中で飲み物を買うためにお財布、それに家の鍵の三つを持ち歩けば何も問題はないだろう。
 私はウエストポーチを腰に巻いて、早速家を出た。

 ウォーキングのコースは、家から少し離れた場所にある親水公園沿いだ。親水公園といっても、人工の川沿いに花壇と遊歩道を添えた程度のものだけれども、余程のことがない限り車のことを気にしなくていいので、以前ウォーキングをしていた時もよくここを歩いていた。
 季節は春。緑が生い茂り色とりどりの花が咲いている。どの花がなんという名前か私にはわからないけれど、少し水っぽい甘い香りを感じながら歩くのは気持ちがよかった。
 途中、川の上をカルガモの親子が泳いでいたのでスマートフォンで写真を撮りつつ歩いて行く。
 そうしてしばらく歩くと、大きな道路に突き当たった。この大きな道路を渡った先にも、親水公園は続いている。目的地は親水公園の終点なのだけれども、この道路を渡った先もだいぶ長く続いている。
 道路を渡るために横断歩道の前に立って信号が変わるのを持っていると、渡ってすぐの所に白いお店があるのが目に入った。
 あんなお店、前からあったっけ? そう疑問に思っていると、信号が青に変わった。早足で道路を渡り、白いお店の店頭に出ている看板を見る。看板には、おいしそうなケーキとお茶の写真が貼られていて、お店の名前も掲げられている。
 『パティスリー・メディクス』
 そう書かれた看板を見てから、こんな所にパティスリーが出来てたのかと思わず店内を覗き込む。ショーケースにはおいしそうなケーキが沢山並んでいた。
 それを見てどうにもたまらなくなる。お昼ごはんを食べたばかりなのに、ケーキをどうしても食べたい! その思いに突き動かされて、ついつい店内へと入ってしまった。
「いらっしゃいませ」
 店員さんがそう挨拶をしてくる。軽く頭を下げてから、店内を見渡す。お店の奥の方に、四人掛けの席が四つあって、そのうちふたつはふたり客二組が使っていた。
 席は空いてるけど、本当に食べていくのか。私は自問自答する。それから改めてショーケースを見ると、近くで見るケーキは一層おいしそうで、頭の中がぐるぐるする。
 ふと、ケーキの値札を見てあることに気づいた。このお店のケーキには、すべてアレルギー表示が付いているのだ。それを見て、このパティスリーのケーキなら安心安全だと思った。
 ショーケースから視線を上げると、店員さんがにこりと笑う。私はケーキを食べていくことに決めた。

 席についてメニューを見る。ショーケースに並んでいるのを見てわかってはいたけれども、ケーキの種類がとても多い。その代わりなのだろうか、ドリンクの種類は少ない。紅茶とコーヒーとルイボスティー、この三つがホットとアイスが選べて、それに加えてジンジャーエールの四種類しかない。
 ケーキにこんなに力を入れてるのにちょっとアンバランスだなとは思ったけれども、飲み物まで種類が多すぎると選ぶのが大変な気はするので、これはこれでいいのかもしれない。
 とりあえずドリンクはルイボスティーにするとして、ケーキは何にしよう。メニューをめくっていくと、かわいくておいしそうなケーキの写真がずらりと並んでいる。
 悩むな……どれもおいしそうだな……もちろん、このメニューにも全部アレルギー表示が付けてあって、私はアレルギーはないけれども、妙に信頼できる感じがした。
 何度もページを捲って、じっくりとケーキを選ぶ。そして、これだと思って選んだのは、オレンジとキャラメルのババロアだ。
 店員さんを呼んで注文を伝える。それから、出されたお水を飲みながらぼんやりと思いを巡らせる。安心して食べられそうなお店だからとつい客席に着いてしまったけれども、そもそもで私がここまで来たのは、ケーキを食べるためではなくもっと先までウォーキングしてダイエットをするためではなかっただろうか。ハードルを低めて早速取りかかれたのは良かったけれども、ここでケーキを食べてしまっては本末転倒ではないだろうか。私は本当に、ここでババロアを食べてしまっていいのだろうか。あまりよくない気がする。
 そうしているうちにだんだん気持ちが沈んできた。いけない、運動とネガティブな思いを紐付けてはいけない。ハードルが上がる。そう思って、私は考え直す。これからきっと毎日、しかも平日は仕事のあとにウォーキングをするのだから、初日の今日はモチベーションを上げるために食べてもいいだろう。このパティスリーのケーキがおいしいなら、たまに寄って食べるくらいはしてもいいのだ。
 それから、どれくらいの頻度ならケーキを食べて良いか考える。週に一回? さすがにそれは多すぎる。日頃のカロリー制限がかなり厳しくなってしまう。それなら、半年に一回? だめだ、そんな長期間ケーキを食べないなんてつらい。それなら、もう少し短いスパンでどうだろう。三ヶ月に一回……二ヶ月に一回……そうだな、月に一回にしよう。それくらいなら、普段のカロリー制限もきつくなりすぎないし、気分転換にもいい。もしそれ以上我慢できるようになるのであれば、その時に期間を延ばせばいいのだ。
 ぐるぐるとそんなことを考えている間に、ガラスのティーカップに入った暖かいルイボスティーと、ぷるんと丸いオレンジ色のババロアが運ばれてきた。早速いただきますをして、ババロアをスプーンで掬って口に運ぶ。オレンジの爽やかな香りと甘酸っぱさが口に広がり、キャラメルの香ばしい匂いが微かにしたあと、ババロアがすっと口の中で溶けた。
 なんだこれは、とんでもなくおいしいぞ。夢中になってババロアを食べていく。そんなに大きなものではないのであっという間になくなってしまったけれども、そのあとにルイボスティーを口に含むと、まろやかな香りと柔らかい味が口の中をさっぱりさせてくれる。
 どうしよう、お茶とセットならいくつでも食べられてしまいそうだ。とはいえ、そんなに沢山食べたらダイエットどころではなくなってしまうし財布もつらい。
 ルイボスティーをゆっくりと味わいながら、もう一度メニューを見る。やっぱりどのケーキもおいしそうだ。今食べたババロアがあんなにおいしかったのだから、きっと他のケーキもおいしいのだろう。
 そう、こんなにおいしいケーキを月に一度のご褒美にできるなら、運動も仕事も頑張れる! そう思うとだんだんテンションが上がってきた。ルイボスティーはもう少し残っているし、また一ヶ月後に来たときはどのケーキを食べるか、目星を付けておこう。季節限定も捨てがたいけど、定番商品も押さえておきたい。
 先のことを考えながらメニューを見ているあいだ、ずっとわくわくが止まらなかった。

 

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