第三章 お兄ちゃんとチーズケーキ

 仕事が終わって会社からアパートへ帰る途中、新しく出来たケーキ屋さんが目に入った。一旦ケーキ屋さんの前で立ち止まり、そういえば。と思い返す。調理師学校時代の友人からだいぶ前に、念願のパティスリーを開いたと連絡が来ていたのを思いだした。
 その時は、新商品の開発で仕事が忙しかったのもあり、おめでとうとだけ返していたのだけれども、仕事が落ち着いたら後日行こうと思っていた。けれども、なかなかきっかけも掴めず今までいたのだ。
 花で飾られたケーキ屋さんから立ち去り、アパートへの道中、仕事も少し落ち着いたし、友人のパティスリーに行ってみるのもいいかもしれないと考える。
 明日と明後日は休日だ。折角だから、兄ちゃんを誘って行ってみようかな。アパートに帰ったら、兄ちゃんに電話しよう。

 そして翌日、兄ちゃんと一緒に友人のパティスリーに行くために、目的地の最寄り駅で兄ちゃんと待ち合わせをした。待ち合わせ場所は、駅の改札前。改札はどうやら一ヶ所にまとまっているようなので、そこが間違いないだろうとそこを指定した。
 駅についてホームからエスカレーターを上って改札に向かう。ICカードを自動改札に当てて出ると、改札すぐ側のスロープの前に、金髪をボブでまとめた小柄な男性が立っている。その彼に手を振って声を掛ける。
「兄ちゃん、久しぶり」
「ユカリも久しぶり。ここまで迷わずに来られた?」
「うん。思ったより乗り換え簡単だった」
 俺の名前を呼んでにこにこ笑う兄ちゃんとその場で少し話をして、早速友人のパティスリーへと向かう。事前にお店のホームページで確認した感じだと、駅からそこそこ離れている感じだった。
 駅から出て歩いて行くと、大きな道路があるにはあるけれども、どうやら住宅街が続いているようだった。
「思ったより静かなところだね」
「そうだな。もっと賑わってるところにあるのかと思った」
 俺と兄ちゃんでそう話ながら歩いて行く。友人の店は大きな道路の側にあるけれども、それでも住宅街の中にあるだなんて、ちゃんと客足はあるのだろうかと少し心配になる。もっとも、地元密着型という方向性で行くのなら、住宅街の中でご近所さんを相手にするのも悪くはないのだろうけれども。
 大きな道路沿いにしばらく歩いて、白い外壁のお店を見つけた。店頭にはケーキとお茶の写真が貼られた看板が置かれていて、店名も書かれている。『パティスリー・メディクス』という記述を確認してから、店のドアを開ける。
「いらっしゃいませ」
 中に入ると、ガラスのショーケースの中にできたてとおぼしきケーキを入れていた、大柄でかなり太った、コック服姿の男性が声を掛けてきた。その彼が俺を見て、嬉しそうな顔をする。
「ユカリじゃないか、久しぶり!
今日はお友達を連れて来てくれたのかい?」
 そう、彼が俺の調理師学校時代の友人で、このパティスリーのオーナーシェフだ。
「よう、武も久しぶり。
今日連れて来たのはうちの兄ちゃんだよ。
兄ちゃんほんとはふたりいるんだけど、もう片方の兄ちゃんは仕事の都合つかなくてさ」
 そうやって俺がオーナーシェフの武と話している間、兄ちゃんはショーケースの中を見ていた。
「すごい、どのケーキもおいしそう」
 兄ちゃんが感心したようにそう言うのを聞いて、武がにこにこ笑って言う。
「おいしそうなんじゃなくて、おいしいんですよ、お兄さん。
丁度イートインも空いてるし、よかったら食べていきますか?」
 武の言葉を聞いて、兄ちゃんが奥の客席に目をやる。俺も見てみると、確かに客席がみっつほど空いていた。
「兄ちゃん、食べていこうよ。
俺はこいつの腕前と腹の肉を信頼してるんだ」
 ケーキを見てる兄ちゃんにそう言うと、兄ちゃんはくすくす笑ってこう返す。
「そうだね。持って帰るのも大変だし、食べて行っちゃおうか」
「ありがとうございます。お好きな席へどうぞ」
 武が頭を軽く下げてそう言うので、落ち着いて座れそうな奥側の席に座る。
 テーブルの上に置かれたメニューを見ると、ショーケースに並べられている写真と、飲み物が四種類載っている。飲み物の種類が少ないのは、ここも種類豊富になると、今の人員では捌ききれなくなるからだろう。
 とりあえず、何を食べるか決めよう。そう思いながらメニューを見ていると、兄ちゃんが感心したように口を開いた。
「すごい、全部にアレルギー表示がある。めっちゃ助かる」
 それを聞いて思わず訊ねる。
「あれ? 兄ちゃんってアレルギーあったっけ?」
 すると兄ちゃんは困ったように笑う。
「アレルギーはないけど、苦手なものはあるからさ」
「あー、なるほど」
 確かに、アレルギーまでいかなくとも、苦手すぎて少しでも匂いを感じたり口に入れただけで吐いてしまう食べ物がある人はいる。たぶん、兄ちゃんはそこまで苦手なものはないと思うけど、避けられるなら避けたいだろう。
 しばらくふたりでメニューを見て注文を決める。兄ちゃんはチーズケーキで、俺はタルトタタンにした。飲み物は、兄ちゃんがアイスティーで俺はホットティーだ。その注文を店頭担当と思われる店員さんに伝え、運ばれてくるのを待つ。
「あー、どれもおいしそうで悩んじゃった」
「兄ちゃん、安定のチーズケーキだな」
 兄ちゃんはチーズケーキというか、チーズが好きなので、はじめて入るケーキ屋さんやパティスリーなんかでは、まずチーズケーキを頼むことが多いと前に聞いたことがある。確かに、チーズケーキひとつを取っても、お店ごとに個性があるので、そういう楽しみ方も面白いと思う。
 しばらく兄ちゃんと話していると、飲み物とケーキが運ばれてきた。チーズケーキはベイクドタイプで、こんがりと焼き色が付いていてどっしりしている。タルトタタンは、きれいに並べられたりんごを艶やかな鼈甲色の飴が覆っていて、見るからに歯ごたえがありそうだ。
 兄ちゃんといただきますをして、自分のケーキに手を付ける前にこう提案する。
「兄ちゃん、ひとくち分ずつ交換しない?」
 その提案に、兄ちゃんはにっこり笑ってチーズケーキのお皿を俺の方に寄せた。
「いいよ。ひとくちずつ味見しようか」
 俺も自分のお皿を兄ちゃんの方に寄せ、お互い相手のケーキをひとくち分フォークで取って口に含む。兄ちゃんが頼んだチーズケーキは、見た目通り重めで、チーズの味がしっかりとする。どうやら何種類かチーズを混ぜて作っているようだ。
 それから、自分のお皿を目の前に持ってきてタルトタタンを食べる。カリッとした飴の歯ごたえと、しっかり加熱されて柔らかくなったりんごが良い相性だ。生地自体も、主張しすぎずメインのりんごを引き立てている。
「んー、おいしい!」
 そう言いながら、兄ちゃんがチーズケーキを食べていく。兄ちゃんはひとくちが大きいので、四口ほどでチーズケーキは消えた。ここまで喜んでもらえると、この店に連れて来た甲斐があったし、友人の武の腕を認めてもらえた気がして嬉しい。
 俺がゆっくりタルトタタンを食べる目の前で、兄ちゃんはアイスティーを飲みながらまたメニューを見ている。
「兄ちゃん、お持ち帰りでなにか買ってく?」
 俺がそう訊ねると、兄ちゃんはメニューから目を上げて、店の入り口の方を見る。
「うん。できればケーキを買って帰りたいけど、途中で崩れちゃうとあれだから、クッキーとか買って帰ろうかなって」
 店の入り口近く、ショーケースの向かい側には陳列棚があって、そこにはクッキーやビスケット、マドレーヌやフィナンシェなどの焼き菓子が並べられている。俺からすると背面なのでここから見るのは難しいのだけれど、店に入ったときに見た感じではそのようなようすだった。
 それにしても、兄ちゃんはこの距離からでも棚のものが見えるのか。すごいな。そう思いながら、俺も体を捻って入り口の方を見る。するとそこにはもう武はいなくて、厨房に戻ってしまったようだ。
 まあ確かに、オーナーシェフがいつまでも厨房を空けているわけにはいかないだろう。もう少し話したかったけれども、仕事の邪魔はできない。また兄ちゃんの方に向き直って話をする。兄ちゃんの彼女にお土産で買っていくお菓子を一緒に選んで欲しいというので、食べ終わったら、兄ちゃんと一緒に焼き菓子を見よう。

 

†next?†