第五章 友人にこの味を

 最近疲れ気味の同居人を連れてパティスリーへと向かった。
「きっとね、甘い物を食べれば恵も元気が出ると思うから」
 僕の隣をとぼとぼと歩く同居人の恵にそう声を掛けると、彼は下を向いたままこう訊ねてきた。
「おすすめのパティスリーとのことだが、ハルはどこでその店のことを知ったんだ?」
 それはもっともな疑問だろう。僕達が住んでいる家の近所にも、パティスリーのようなものはいくつかある。それなのに、わざわざ電車に乗って、見知らぬ街の閑静な住宅街を通って、目的のパティスリーへと行こうとしているのだ。もっと有名なパティスリーなら誰かから聞くということもあるだろうけれども、今向かっているパティスリーは有名店というわけでもない。だから、僕がその店を知っているのを疑問がるのは当然のことだろう。
「これから行くパティスリーはね、僕の学生時代の友人のお店なんだ」
 それを聞いた恵は、また不思議そうな顔をする。
「高校の時の友人か?」
「なんでそう思うんだい?」
「いや、お前が通ってた大学の方は、医大だったから、そこの友人がパティスリーを構えているとは思えない」
 それを聞いて、僕は思わず小さく笑ってしまった。たしかに、恵の言うとおりだ。医大の時の友人がパティスリーを開くとは思えないというのは、よくわかる。けれども。
「そう思ってしまうのはわかるけれどね。
ところがなんと、パティスリーを開いているのは医大の友人なんだよ」
「えっ?」
 恵が驚いた顔をして僕を見る。そこで、大きな通りに差し掛かったのだけれども、驚いて前が見えていないようすの恵の腕を引いて立ち止まらせる。赤信号だから危ない。
 僕の隣に恵が立ったのを確認してから、僕の友人がパティスリーを開くにあたった経緯を話す。
「実はね、僕の友人はアレルギーを持った人でも最大限お菓子を楽しめるお店を作りたいからと言って、僕と同じ医大に入ったんだ。
たしか、卒論もアレルギーのことに関しての内容だったのかな。
彼はインターンを終えて、医師免許を取って、それから、調理師学校に通っていたよ」
「なるほど……」
 そんな事をしている間に、信号が青に変わる。この横断歩道を渡った先にある白い店が、僕の友人が経営しているパティスリーだ。
 道路を渡って、店の扉を開く。中に入ると、ショーケースの中にケーキを入れているでっぷりと太ったコック服の男性、僕の友人の姿が目に入った。
「やあ、久しぶりだね武」
 僕がそう声を掛けると、ショーケースの中にケーキを入れ終わった友人の武が、僕の方を見てにっこりと笑う。
「久しぶりじゃないかハル。今日はお友達を連れて来てくれたのかい?」
「そうなんだよ。
彼も最近仕事で疲れることが多いらしくてね。気分転換になればと思ったんだ」
「なるほど、そうなのか」
 そうやりとりをしてから、武が恵に軽く頭を下げて、奥にある客席を勧めてくれた。今の時間、客席を使っている他の客はいないようなので、一番奥まった席を使うことにした。
 席について、メニューを見ながら恵が小声で僕に訊ねる。
「ところで、この店のケーキの味はどうなんだ?」
「どうというのは?」
「いや、どの程度おいしいのかと思って」
 なるほど、恵は普段あまり甘い物を食べないので、写真を見ただけでは味の想像ができないのだろう。なので、僕は自信たっぷりにこう答える。
「大丈夫、ここのケーキは十分においしいよ。
僕は彼の腕前と腹の肉を信頼しているんだ」
「説得力」
 恵も納得してくれたようなので、早速どのケーキを食べるか選びはじめる。そうしていると、恵はすぐにあるケーキに目を留めた。典型的な、白いホイップクリームにいちごが乗ったショートケーキだ。彼が少しだけ恥ずかしそうにしながらその写真を指さす。
「僕はこれにする」
 食べたいものを選ぶのに恥ずかしがる必要はないと思うのだけれども。そう思いながら、僕も自分が食べるケーキを選ぶ。メニューを見ていく中でおいしそうに見えたのがオレンジとキャラメルのババロアだったので、僕はそれにすることにした。
 飲み物は、恵がホットコーヒーで僕がホットティー。この店はドリンクの種類が少ないけれども、どれもケーキの味を引き立ててくれるものばかりだ。
 店員に注文を伝えてしばらく待つ。その間、恵の様子を見ていると、そわそわして落ち着かないようすだった。
「どうしたんだい?」
 僕がそう訊ねると、恵は周りを見回しながらこう返してきた。
「あの、こういう店は慣れてなくて、その」
「ああ、そうなんだね。
大丈夫、だれも取って喰ったりはしないよ」
「で、でも」
 緊張気味の恵と話している間に、ケーキとドリンクが運ばれてきた。テーブルの上に置かれたショートケーキとババロアを見ると、写真よりもずっとおいしそうに見える。もっとも、そう見えるのは僕がこの店のケーキの味を知っているからかもしれないけれども。
 ふたりでいただきますをして、早速ケーキを口に運ぶ。オレンジとキャラメルのババロアは、爽やかな柑橘の香りと酸味に、甘いけれどもほろ苦いキャラメルの味が混じり合っておいしい。口の中でスッと溶けていく食感も、心地よかった。
 ショートケーキの味はどうなのだろう。そう思って恵の方を見ると、彼はひとくちだけ口に含んで噛みしめながら、微かに震えていた。もしかして、口に合わなかったのだろうか。そう思って思わず声を掛けた。
「どうしたんだい? あまり好みではなかったかな?」
 すると、恵はふるふると頭を振ってこう答えた。
「……味がする……」
 これは想像を超えるほどおいしいものを食べたときの、恵のいつもの反応だ。口に含んだ食べ物のおいしさの度が過ぎると、どうにも頭がいっぱいいっぱいになってしまうようなのだ。
「そうか、気に入ってくれたようでよかったよ」
 そう言って僕がホットティーをひとくち飲むと、恵もコーヒーをひとくち飲む。すると、今度はぽろぽろと泣き始めてしまった。さすがにこれは僕も驚く。
「急にどうしたんだい? おいしすぎるのかい?」
 慌ててそう訊ねると、恵が涙を拭って、小声でこう言った。
「……高校の時の友人にも食べさせたい……」
 そういえば、恵は高校の時の友人のことをとても大切にしているのだっけ。それを考えると、彼が友人に食べさせたいと思うのは、自然なことのように思えた。
「そんなにおいしいかい。
それなら、今度はそのお友達を連れて、このお店においで」
「うん」
 それから少しの間、飲み物に口を付けながら、ゆっくりとケーキを食べた。
 ケーキが食べ終わり、恵がふと、店の入り口近くにある、焼き菓子の乗っている棚を見た。
「そういえば、この店はクッキーなんかもあるんだな」
「ああ、お土産にするのに、日持ちする焼き菓子も置いていると言っていたね」
 恵は目を細めて棚の上に乗っているクッキーを見る。この距離からよく見えるものだなと思うけれども、僕も仲の良い友人が作ったお菓子を気にしてくれるのは嬉しい。
 しばらくそうしていて、恵が僕に言った。
「友人にお土産で何か買っていこうと思うのだが、一緒に選んでくれないか?」
 その言葉に、僕はにっこりと笑って返す。
「もちろんいいとも。一緒に選ぼう」
 それから、ふたり揃って席から立ち上がり焼き菓子の並んだ棚の前へと移動する。背が低い僕でも、一番上の棚を見られる高さになっている。このあたりは、メインの客層であると思われる女性にも見やすいようにという、店主である武の心遣いだろう。
 恵とふたりでどれをお土産として買っていくかを選ぶ。すこし話を聞いた感じでは、恵の友人にはアレルギーは無いようなので、安心して選べる。
 ああでもないこうでもないと言いながら焼き菓子を選んで、恵が選んだのはチョコチップクッキーだった。
 それをふた袋手に取って、恵が会計をするためにレジへ向かう。僕も自分の食べた分のケーキ代を払うためにレジに並んだ。

 

†next?†