第十六章 理想を掲げて

 うちのパティスリーが四日ほど連休になった。
 うちの店は基本的には週に一日だけが休みなのだけれども、年に三回くらいは、こうやって連休を取る。その理由として、いつも忙しなく働いている従業員達にたまには羽を伸ばしてもらいたいというのと、俺が他のおいしいお店を回るためだ。
 今日は、以前から評判を聞いて気になっていた店のランチとディナーを予約している。予約、というところからわかるように、そこそこ良い店だ。
 朝起きて簡単に食事をして、身嗜みを整えて家を出る。今日みたいに食べ歩きをする日は、朝からわくわくして仕方がない。
 電車に乗って、まずはランチを予約している店に向かう。そこはビーフシチューがおいしいということで、一日数組限定のランチになんとか予約の段階で滑り込めた。
 静かなビル街を歩いて、目的の店に着く。その店はビルの五階にあって、エレベーターを降りるとすぐに上品な店構えが見えた。
 店員に案内され、テーブルに着く。もうメインメニューは予約してあるので、注文するのはドリンクと、あとは食後のデザートだけだ。メニューを見て、ドリンクの種類の多さが目に入る。アルコールはともかくとして、ソフトドリンクの種類が多い。ジュース類だけで六種類ほどあるし、コーヒーや紅茶も産地ごとに取りそろえている。
 うちの店でもこれくらい取りそろえられればなとは思うけれども、うちの店は特性上、飲み物にあまりリソースを使えない。けれども、このように種類を取りそろえている店で味を確かめるのは、悪いことではないだろう。紅茶もコーヒーもルイボスティーも、種類を絞っているとはいえ、よりおいしものを選ぶためには、まず味を知らないといけないのだ。
 店員が料理を運んでくる。真っ白で少し底が深い皿の上に盛られた、茶色いシチューのかかった大きな牛肉。くたくたに煮こまれたタマネギは正体を失いかけているけれども、シチューの香りの中に、確かにその存在を残していた。
 いただきますをして、早速ビーフシチューを口に運ぶ。肉は大きいけれども、スプーンで崩せてしまうほどに柔らかく煮こまれ、まろやかなシチューの味と見事に調和している。ゆっくりと味わって、食べ終わったら今度はデザートのケーキを持ってきて貰う。十分に満足なランチタイムになった。

 ランチを皮切りに、ディナーまでの間に何件かの喫茶店やパティスリーを回ってケーキなどを食べたり、デパートのお菓子売り場を回って色々なお菓子を買ったりした。デパートで買ったお菓子は洋菓子だけでなく、和菓子や中華系のものなどもある。
 そうこうしているうちに、ディナーの時間になった。正直言ってそこまでお腹は空いていないのだけれども、ディナーで予約しているウズベキスタン料理ははじめて食べるものだ。初めての味を体験できるということで、期待で足取りは軽かった。

 そうやって一日食べ歩きをして、買ってきたお菓子にもちょいちょい手を付けて、食べたものの記録を手帳に付ける。
 普段から自分が作るお菓子の味見をしているし、それも十分においしいと思うけれども、そればかりだとなかなか他のおいしいものに気がつけない。今日のようにおいしいものを食べ歩きしたりするのは、今後お菓子を作り続けるにあたってとても大切なことなのだ。
 どのような料理でも、お菓子でも、その作りや味の中には、なんらかのインスピレーションが隠れている。それを見逃さないようにするのが大切なのだ。
 少々食べるのが大変だと思うことはあるけれど、たまにのことだし、何より俺は食べるのが好きだ。だから、こうやって食べ歩きができる連休は、いつも楽しみにしている。
 時計を見る。だいぶ夜も更けた。明日も店は休みではあるけれども、明日は店に行って明後日店頭に出すケーキや焼き菓子の準備をしないといけない。とはいえ、いつものように朝早く出る必要はないので、今夜はもう少し夜更かしをしよう。
 先日うちに届いて、ざっくりとだけ目を通した定期購読の雑誌を手に取る。定期購読している雑誌は二種類あって、医療系のものと製菓系のものだ。どちらも最新情報を集めるために大切な本だ。
 まずは医療系の雑誌から読んでいく。俺が定期購読しているのはアレルギー専門の雑誌で、抗アレルギー剤に関してや、アレルギー物質についての最新情報が載っているので読むことが欠かせない。必要そうな情報を手帳の専用ページに書き込んでいき、最後まで目を通す。
 そうしたら、次は製菓系の雑誌に手を付ける。こちらは小麦や砂糖、その他製菓に必要な材料の新商品が載っている。新たに提案される材料の情報の中には、ゲル化剤や乳化剤、それに着色料や香料の情報も載っている。この雑誌も、必要そうな情報を手帳の専用ページに書き込んでいく。
 こうやって新しい情報を仕入れて手帳に付け、その次にその情報をパソコンに入力していく。医療に関する情報と、製菓に関する情報を紐付けしておくのだ。
 この紐付けは手帳でもできるけれども、今までに蓄えた膨大な数の情報を参照しながら紐付けをする作業は、パソコンを使った方が楽なのだ。なので、パソコンである程度紐付けをしてから、それを手帳に書き込んでいく。こうやって集めた情報は店の事務室にあるパソコンにも入れておくので、最近はクラウドというものがあって大変便利だとしみじみ思う。
 作業が一段落したところで、すこしリラックスしようとパソコンの前を離れる。台所に行ってお湯を沸かし、コーヒーカップとドリッパーを用意する。ドリッパーの中に詰め込むのは、俺が愛飲しているデカフェのコーヒーだ。
 お湯が沸いたら、ゆっくりとドリッパーの中に注いでいく。もう慣れてはいるけれども、それでも心落ち着かせてくれる香りに、なんとなく疲れが取れる気がした。
 コーヒーを淹れて、またパソコンデスクに戻る。そこでゆっくりとコーヒーを飲んで、ぼんやりと時計を見る。だいぶ夜更かししてしまったけれども、今日もとても充実した一日だった。それを思い返すと、充足感があった。
 コーヒーを飲み終わり、台所でカップを洗う。それからパジャマに着替えて部屋の電気を消し、布団に潜った。
 布団の中で、今日食べたおいしいものを思い出していく。どれもこれもおいしいもので、見つけたとき、手に取ったとき、食べたとき、それぞれに胸が弾んだし、わくわくした。こういうわくわくやときめきを、これからまたお客さん達に伝えて、分けていくのだ。
 次はまたきっと、今までよりもおいしいものを作れる。作りたい。そう強く思う。俺が掲げる目標は、手を伸ばすには難しいし、もしかしたら理解も得づらいかもしれない。それでも、その目標を取り下げるなんてことはできるはずもないのだ。だから、今度はどんな新作を作ろう。そんなことを考えてしまうのだ。
 ふと、今までに作った色々なケーキやお菓子のことを思い出す。自分で足を使っておいしいものを探すだけでなく、今までにうちの店に来てくれたお客さん達の注文からも、学ぶことはとても多い。それは今までのことだけでなく、これからもそうなのだろう。
 難しい注文だと思うことはあるけれども、簡単に乗り越えられるハードルばかりだと、自分の成長はないのだ。自分の実力よりも少し高い目標をたくさん提示してくれるお客さんには、感謝してもしきれない。そんなたくさんの人に支えられて、俺の店は少しずつ理想へと近づいていくのだ。
 少しでも多くの人が、安心して食べたいものを食べられる店にしたい。
 もちろん、アレルギー物質を含むものをそのまま食べたいといわれたら止めるけれども、それでも、お客さんがイメージするものにより近く、アレルギーの心配を取り除いたものを作っていきたい。
 全ての人が等しく食べられる食べ物というのは、きっと存在しないのだと思う。それでも、少しでも多くの人に。その思いだけは捨ててはいけないのだ。少なくとも、俺にとっては大切な理想だ。
 ナンバー1にならなくてもいい。オンリー1になりたいかといわれると、そういうわけでもない。俺と同じ理念を持ったお店がもっと増えたら、それはお客さんにとって選択肢が増えることなのだから喜ばしいことだ。
 いつかうちみたいな店が増えることを願いつつ、俺は俺が掲げた理想をこれからも追い続けよう。

 

†fin.†