其の二 恋慕

 私の名前はシエルネル。天界に坐す神に仕える天使だ。

私に与えられた仕事は、天使長として天使を統べる事と、神の補佐など、様々な物だ。

 時折、神の命で地上へと降り人間達の様子を見ることもあるのだが、 私は他の天使達よりも地上へと回される事が多い。

理由はたいしたことでは無く、私の容姿故だという。

黒く長い髪に、黒い翼。それを引き立てるような細く白い体に、鳩の血の色をした瞳。

それを見て人間は、私を天使だと思うことは無い。

『悪魔』

 私の姿を見た人間は、そう評する。

地獄に住まう者の様に、私は見えるらしい。

 その事実に、別段不満は無い。

悪魔も地獄も、我等天使と同じように神が創りだしたもの。人間に対する役割や、 性質が違うだけで、我々に貴賤は無い。

ただ、人間達はどうにも、自分達を害そうとする悪魔達を忌避して居るようだが。

 人間が悪魔を避けるというのを神はご存じで、様子を見に行った天使が見つかった時に、 その地域だけ天使の加護が有ると思い込む傲慢を人間が犯さないよう、悪魔の様に見える私を地上へと赴かせるのだ。

 神は海の底よりも慈悲深く、それと同時に、 生まれたばかりの赤子のように寂しがり屋だ。自らが土塊から創りだした人間達を深く愛し、 時にその愛を試す為に試練を課する。

きっと、私が地上に行く事も、その試練のうち一つなのだろう。

 ふと、私は自分の右腕を見やる。

ゆったりとしたローブに包まれた腕。袖を捲り、肌を出すと、そこには青い痣がいくつも浮かんでいた。

先日地上に降りた時に人間に見つかり、石をいくつも投げつけられた。その時の痕だ。

悪魔達はいつもこの様な目に遭っているのかと思うと、不憫で仕方ない。

この様な事はもう慣れたけれども、痣を押さえると腕の奥がずきりとする。

 その感覚に、何故か視界が滲んだ。

 

 ある日の事、私は神の御前に出る事になっていたので、泉のほとりにある花畑で髪を結いながら、 時折花を摘んでは、髪を彩っていた。

今日はどの様な仕事を言いつけられるのだろう。天使達の配置換えか、それとも書類の確認か、 または……地上に降りるのか。

 そこまで考えて、地上に降りるのは気が進まないなと、ぼんやりと思う。

神が愛する人間達を、私もまた愛している。けれども人間達の前に姿を顕す事を考えると、心が重かった。

 なんとか髪を結い上げ、神の元へ行く為に神殿へと向かう。その途中で、弟のプリンセペルに会った。

彼は普段、天使達を統べる仕事の補佐をしてくれているのだが、今は休憩中なのだろうか。

 彼が言う。

「兄さん、浮かない顔をしているが、何か有ったのか?」

 それを聞いて始めて、自分が暗い顔をしている事に気がついた。

「ああ、そうか。

何か有った訳では無いのだが」

 そう言うと、彼は私の体をぎゅっと抱きしめて、悲しそうな声を出す。

「兄さんがそんな顔をしていたら、私も辛い」

 私よりも大きな体を小さく震わせる、かわいい弟。そっと彼の頬に手を当て、軽く唇を重ねる。それから、 私も抱きしめ返して彼の背中を優しく叩く。

「心配掛けてすまないな。でも、これから神の御前に出なくてはいけないのだ。

いつまでもこうしてはいられない」

 すると、彼も納得したのか腕をほどいてくれたので、その横を通り過ぎて、私は神の元へと向かった。

 

 神から言いつかったのは、地上の視察だった。

地上に降り、物陰に隠れながら様子を見ていたのだが、いつも通り人間達に見つかってしまった。

黒い翼を畳み、ほどいた髪を乱しながら、村の中を走って逃げ回る。

投げつけられる石と罵声を受けながら、それでも人間達がどの様な生活状態なのか、 それを見ながら民家の間を駆け抜けていった。

 ふと、暗い物陰から右腕を引かれ、私の身体がそこに潜った。

膝を着き引かれた腕を見ると、褐色の華奢な手に握られていた。

 私の後ろを、人間達が過ぎていく。その音を聞きながら顔を上げ、手の主を見ると、恐怖を目に浮かべた、 素朴な顔の少女がいた。

「大丈夫ですか?」

 少女の言葉に、私は熱を持っている頬に手で触れる。鈍く痛んだ。

「何故私を助けたのだ?」

 腕を握る手をそっと外しながら、少女に尋ねる。

「何もしてない人をひどい目に遭わせるのは、良くない事です」

 その答えに、私は口元をつり上げてまた訊ねる。

「私が悪魔でも?」

「喩え、悪魔でも」

 少女はそう言うが、翼を背負った私が悪魔に見えるのだろう。声が震えていた。

 何故だろう。痛んでいる頬がひどく熱い。

今回の視察はここまでにした方が良さそうだ。私は少女に礼を言って、その場から姿を消した。

 

 天界に帰り、神に今回見てきた地上の様子を報告する。それが終わってから、妙にひどく傷が疼くので、 医務室へと向かった。

 太く白い柱に支えられた高い天井。明かり取りの窓が広く取られた廊下。見慣れた筈の風景が、 何故かよそよそしく感じた。

 白樺で出来た医務室のドアを開けると、薄荷色の翼を背負った天使が、棚に並んだ薬瓶を並べ替えていた。

彼は医学を司る天使で、メディチネルという。

 細かく砕かれた苦灰石の入った瓶を棚に置き、私に声を掛けてくる。

「どーしたの? 顔青いよ?」

「ああ、地上に降りた時にやられてな」

「なるほど。地上って何かと物騒だよね」

 顔の痣を見た彼が、他に怪我は無いかどうか聞いてきた。そう言えば、まだ全身は確認していなかった事を思い出し、 手間を掛けさせてしまうが診てもらう事にした。

ローブを脱ぎ肌を見ると、所々に青黒い痣がある。

それを見た彼は、頬を膨らませて不満そうだ。

「もう、めんどくさいなぁ。

大きい湿布貼って済ませちゃうよ」

 そう言って、手よりも大きな瓶から真っ黒な炭を乳鉢に入れ、小麦粉と、蓬菊、それから蜂蜜を混ぜ合わせている。

鈍色の薬を目の粗い綿の布にたっぷりと塗り、私の頬や背中、左腕に貼っていく彼。

 ふと、右腕を捕まれた。刹那、地上で私の腕を引いた少女の顔が頭に浮かび、彼の手を振り払ってしまった。

何故そんな事をしてしまったのか。わからなかったけれども、右腕には触れられたくなかった。

 

 身体の痣が消えた頃、私はまた神の御前に出る事になった。いつものように泉のほとりで髪を結い、花で飾る。

そして神から言いつかった仕事は、これからは地獄へと降り、地獄の管理をするようにと言うものだった。

確かに、地獄には今、多くの悪魔を統率出来るほどの管理人は居ない。けれども、 何故その役割に私が選ばれたのかが気になった。

その事を伺うと、こう仰った。

「人間に恋をした天使を、天界に置いておく訳にはいかない」

 恋というのがどういう物なのか、私にはわからなかったけれども、あの時の少女の事が思い返されて、 今はもう痛まない頬が熱くなった。

 

†next?†