第一章 気持ち一新美容院

 大日本帝國で過ごす日々は、今日も穏やかだ。平和な街の一角にある小さなワンルームで、柴犬と一緒に暮らしている着物姿の青年が、重そうな肩掛け鞄を肩から提げて柴犬に話し掛ける。
「それじゃあ鎌谷君、ちょっと出かけてくるね」
 その言葉に、鎌谷と呼ばれた柴犬は、窓辺の日向で顔を上げて返す。
「出かけるって、どこに行くんだ悠希」
 犬である鎌谷が喋るのは当然のことといった風で、悠希と呼ばれた青年は頭の後ろで結わえた髪を触って答える。
「美容院だよ。だいぶ髪が伸びてきたから」
「ああ、そういえばそうだな」
「じゃあ行ってきます」
「おう、行ってこい」
 悠希が玄関を開けて出ていき、鍵を閉めるのを耳で確認してから、鎌谷はまた窓辺の日向でうつらうつらしたのだった。

 窓から入る陽も傾いてきた頃、鎌谷は玄関の鍵を開ける音で目を覚ました。
「おう、おかえり」
 そう言って顔を上げると、悠希が玄関を閉めて部屋に入ってくる。
「ただいま。ちょっと時間かかっちゃった」
 さっぱりした顔で鞄を肩から下ろす悠希を見て、鎌谷は驚いた顔をする。
「おまっ、そんな短くしたのか!」
「え? うん。
でも、そんな言うほど短いかな?」
 そう言って頭を撫でる悠希の髪は、家を出る前に比べるとだいぶ短くなっている。スタイルとしては、襟足から顎のラインを結ぶ線で切られた前下がりのショートボブだ。
「だって、いままでもっと長めだっただろ?
そこまで短いの学生時代以来じゃねーか」
「それはたしかに」
 鎌谷の言うとおり、短大を卒業したあと一度髪を伸ばしてしまってからというもの、切っても髪が結べる長さで整える程度だった。髪が結べる方が、なにかと楽だったからだ。
 それを知っている鎌谷が、心配そうな顔で訊ねる。
「なんだ、なんか嫌なことでもあったのか?」
 すると悠希は、困ったように笑ってこう答えた。
「ほら、僕も小説家になって出版社の方に行かなきゃいけなかったりするから、身嗜みを整えようと思って。
長いよりは短い方が手入れはしやすいし」
「なるほどな」
 悠希の説明に鎌谷は納得したようだけれども、それでも違和感があるのか少し鼻の頭に皺を寄せている。
「でも、ずっと長いのを見慣れてたから、急に短くなると変な感じだな」
「ふふふ、すぐに慣れるよ」
 そんな話をしている間にも夕食の時間だ。悠希はキッチンのシンク下から犬缶を取りだして、鎌谷の晩ごはんの用意をする。それを鎌谷の所へ持って行ってから、冷蔵庫から野菜を摂りだして野菜炒めを作り始めた。

 夕食も、夕食後の洗い物も終わりゆったりとお茶を飲んでいる。鎌谷はコップに注がれた水割りの焼酎をちびちびとやっているが、これはいつもの事だ。普通の犬ならお酒を飲ませるなんてとんでもないという所だが、鎌谷はある程度人間と同じものを食べられる宇宙犬なので、飲み過ぎないように悠希の監視の下に酒を飲むことは多い。
 酒を飲む鎌谷と話しながらお茶を飲んでいた悠希が、ふとマグカップを持ち上げる。中身が空になってしまったのだ。
「それじゃあ鎌谷君、ちょっとシャワーしてくるね」
「おう、わかった」
 マグカップを窓辺のちゃぶ台に置き、鎌谷用の焼酎サーバーを鎌谷の手の届かないところへ移動させてから、悠希はユニットバスに向かう。部屋とキッチンの間にあるカーテンを閉める音がしてしばらく。ユニットバスから水音が聞こえてきた。

 コップの中の焼酎も飲み終わり、鎌谷がちゃぶ台に顎を乗せてうとうとしていると、突然ユニットバスから叫び声が聞こえた。その声にはっと顔を上げた鎌谷が、カーテンの手前に行って声を掛ける。
「どうした、何があった!」
「もの凄く抜け毛が少ない!」
「そりゃそうだろ」
 いままでシャワーの度に、悠希は抜け毛が多く掃除で苦労していたのを鎌谷は知っている。それがいきなり減ったとあれば驚くのはわかるけれども、少々大げさだ。
「美容院で頭洗ってるだろうし、髪が短くなったんだったらそりゃ抜け毛が少なく見えるだろうよ。落ち着け」
 宥めるように鎌谷がそう言うと、悠希が安心したように返す。
「そっか、そうだよね。今日はもう頭洗ってたんだった。
急に減ったからびっくりしちゃった」
「こっちがびっくりだよ」
 どうやら抜け毛の件はそれで納得した様で、またユニットバスから水音が聞こえてきた。

「あー、さっぱりした」
 寝間着に着替え、頭を拭きながら部屋に入ってきた悠希が、また驚いた顔をして鎌谷に言う。
「鎌谷君すごい、頭拭くのがすごく楽」
「かさが減ったからな」
 なんだかんだで悠希の髪が短くなって、一番驚いているのは悠希自身ではないだろうかと鎌谷は思っているようだ。
 ふと、鎌谷が悠希に訪ねる。
「そういえば、会社行くのに身嗜みって言ってたけど、服はどうすんだ?
会社行くようなスーツも無くはなかった気がするけど、着物で行って大丈夫なのか?」
 それに対して、悠希は髪をブラッシングしながら答える。
「うん、会社の編集さんで着物の人いるから、着物でも大丈夫だよ」
「なるほどな」
 髪の手入れが一段落したところで、悠希がパソコンデスクの棚からノートを取り出して開いた。そのノートには文字と矢印が書き込まれていて、一見なにを意図しているのかはわからない。
 鎌谷がそのノートを見て、溜息をつく。
「打ち合わせはなるべくネットでやるって言っても、プロットがこの状態じゃ実物持ってかないと説明難しいよな」
「そうなんだよね。プロットノート持って行って、直接打ち合わせしないといけない部分は結構あるかも。
校正入れて貰った原稿も受け取らないといけないし」
「はー、まったく人間は大変だな」
 プロットが書かれたノートをぺらぺらと捲って難しい顔をしている悠希に、鎌谷がまた溜息をついて訊ねる。
「ところで、いまどれくらいプロット書けって言われてるんだ?」
 それを聞いて、悠希はプロットノートから視線を上げ、鎌谷を撫でて答える。
「この前のデビュー作の続きだけだよ」
「いつまでにだ?」
「なるべく早く次が欲しいとは言われてるけど、無理のないペースでいいって」
「そうだな、普段のお前のペースだと無理しかないもんな」
 そんな話をしたところで、悠希がそう言えば。とパソコンを立ち上げる。夜の分のメールチェックをするためだ。
 普段は日中から夜までパソコンを付けっぱなしなのだけれども、今日は美容院に行くためにパソコンを落として、そのままだったのだ。
 パソコンを立ち上げてメッセージソフトを見ると、出版社の担当編集からメッセージが届いていた。なにか急用かと思って開くと、そこにはこうあった。

「新橋先生、ちゃんと休んでますか?」
 それを見て悠希は苦笑いをする。もう担当編集にも無理をしがちだというのが伝わっているようだった。
 ここまで色々と心配されているのなら、今日はもう寝てしまおう。そう決めた悠希は、メールチェックだけを済ませてすぐにパソコンを落とし、部屋の電気を消した。

 

†next?†