バレンタインデーも過ぎた頃、この日悠希は新しいプロットを持って紙の守出版編集部を訪れていた。
いつものことのように、プロットノートを広げ美言と応接間で話をする。
「それにしても、新橋先生はあいかわらず仕事が早くて助かります」
「納期を破るわけにはいかないので」
「とても助かります」
そんなに納期が守れない人が沢山いるのだろうかと悠希は思ったようだけれども、それについて深く追求するのもよくないだろうと敢えて訊ねない。
美言がプロットを確認し、考える素振りを見せる。
「新橋先生のプロット、この段階だとすっきりまとまってて良いように見えるんですけど」
「けど、なんでしょう」
いままでよりもクオリティが下がったように見えるのか、それともより高い水準を求められているのかと、悠希は真面目な顔をして耳を澄ます。
美言が持っていたファイルを開いて悠希に見せる。
「こちら、読者アンケートのご意見をまとめたものなんですけれど、きれいにまとまっているのが良いと言う意見だけでなく、もう少し人間味が欲しい。と言う意見も多くなってきましたね」
「人間味ですか」
思ってもいなかった言葉に思わず驚く。悠希としては、自分が書いている小説の人間味が薄いとは感じていなかったからだ。
以前美言から提案された理不尽さを取り入れると言う案よりも、人間味を出すと言うことは難しいことのように思えた。なぜなら、理不尽さがないことは自覚できるけれども、人間味が薄いことに関してはどこがそうなのか全くわからないからだ。
難しい顔をする悠希に、美言はにこりと笑って言う。
「一応こういう意見がありますというくらいのもので、無理に取り入れろと言うわけではないです。あくまで参考までに」
「はぁ」
取り入れるのが難しいとは言え、参考意見を聞けるのはありがたい。またふたりでプロットノートを見て、再考してみてもいいのではないかという部分を洗い出した。
「でも、私は思うんですよ」
一体何をだろう。不思議に思った悠希が顔を上げて美言を見ると、美言はこう続けた。
「新橋先生の作品に、人間味を足すというのは難しいんじゃないかって」
「そうなんですか?」
「新橋先生自体が、人間味が薄いので……」
「えっ?」
予想外のことを言われて悠希はまた驚く。自分が人間味が薄いと思われているとは思っていなかったからだ。
思わずきょとんとしている悠希に、そういえば。と言って美言がなにから可愛らしい紙袋を持ってきて手渡す。
「こちら、新橋先生に渡しておいて欲しいと預かっていたものなんですけれど」
「僕宛ですか?」
誰からだろうと思い訊ねると、どうやら千代子からのもののようだ。どうして彼女が、突然こんな可愛らしい紙袋を渡そうとしたのか、それはわからなかったけれども、紙の守出版を中継して渡された物なら大丈夫だろうと、悠希はそれを快く受け取った。
「ところで、これの中身はなんなんですか?」
紙袋の中を見ると、可愛らしくラッピングされた箱が入っている。けれどもそれがなにであるかは、美言は教えてくれない。ただにこにこと笑っているだけだ。
そうしている内にもこの日の打ち合わせは終わり、悠希は編集部を出ていった。
家に帰り、鞄を下ろして手に持っていた紙袋をちゃぶ台の上に乗せると、ちゃぶ台の側で煙草を吸っていた鎌谷が、紙袋の匂いを嗅いでこう言った。
「なんだ悠希、チョコレートでももらったのか?」
「えっ?」
温かいお茶の用意をしていた悠希が驚きの声を上げる。ティーバッグの入ったカップにポットからお湯を注ぎ、それを持ってちゃぶ台の所まで来て座る。それから、紙袋の中から箱を取りだして包みを開けると、鎌谷の言うとおり、中にはつやつやとした高級そうなチョコレートが入っていた。
「すご……」
「高級そうなチョコだな」
まさかこんなものを突然渡されるとは思っていなかったので悠希は戸惑うしかない。
戸惑いながらもチョコレートを口に運ぶ悠希に鎌谷が訊ねる。
「それ、誰からもらったんだ?」
「会社でお世話になってる校正さん……っていうより、鎌谷君には赤いクラゲのココアさんっていった方がわかりやすい?」
「またすごい相手からもらったな」
ひとくち、ふたくちと食べて、悠希は一粒鎌谷に差し出す。すると、鎌谷は頭を振っていらないと言った。
「でも、なんで急にチョコレートなんて持ってきたんだろう」
不思議そうに悠希が呟くと、鎌谷がにやにやと笑って言う。
「そりゃお前、バレンタインのだろ?」
「言われてみればこの前バレンタインだったね」
わざわざ挨拶用の義理チョコを用意してくれたのかと少し嬉しく思いながらチョコレートを食べ、ふと、紙袋を見ると、中になにか折りたたんだ紙が入っていることに気がついた。
「あれ? お手紙だ。どうしたんだろ」
チョコレートを食べ終わってから悠希はその手紙を開いて中身を読む。そうしているうちに、どんどん悠希の顔が赤く染まっていった。
その様子を、鎌谷はにやにやしながら見ている。
「なんて書いてあんだ?」
悠希の様子からおおむね内容はわかっているようだったけれども、敢えて悠希の口から内容を聞きたいようだ。けれども悠希はなにも言わず、そのまま万年床に潜り込んでしまった。
手紙には目をやらないようにしながら、鎌谷が布団の上から悠希をつつく。
「どうしたどうした」
すると。布団の中からか細い声が聞こえてきた。
「た……たいへんだぁ……」
「なにが大変なんだ?」
「ココアさんとお付き合いしてくれませんかって、お手紙に……」
ほんとうに、手紙を読んで動揺しているのだろう、声が震えている。
「どうすんだ? お付き合いするのか?」
布団をぽんぽん叩きながら茶化すような口調で鎌谷がそう言うと、悠希はしどろもどろながらこんな事を言った。
「どうしよう、女の子の方からあんなこと言わせちゃったよぉ……」
「それを気にするならもっと早い段階でお前からアプローチしろよ」
「だってそんな、こんな急に」
布団の中でごにゃごにゃしている悠希に、鎌谷がまた訊ねる。
「で、付き合うのか?」
するともぞもぞ動いていた布団がぴたりと止まり、またか細い声が聞こえてくる。
「いまそれどころじゃない……」
「だろうな」
しばらくの間、布団の中から悠希の悶える声が聞こえてきていたけれども、十分ほど経って少し落ち着いたのか、悠希が布団から出てくる。そしてそのまま、なにも言わずに鞄の中からプロットノートを出して開いた。
その様子を見た鎌谷は、悠希なりに自分を落ち着かせようと必死なのだなと思う。
悠希はプロットノートに書かれた、もう一度考えてみるべき部分をじっと見つめて、どうするべきか考えを巡らせる。けれども、どうしてもあの手紙のことが頭から離れない。
分けて考えなくてはと思えば思うほど、余計に気にかかる。それならば、あの手紙にどう返すべきかを早く考えて決めてしまえば良いのだろうとは思ったけれども、結局どうするのか。その事をすぐには決められそうもなかった。