第十九章 一歩前へ

 プロットの再考もあらかた終わり、ホワイトデーの数日前に、悠希は紙の守出版編集部へと訪れていた。プロットの確認という仕事の都合で来たというのももちろんあるのだけれども、もうひとつ、大事な用事があった。
「プロットも、先日に比べて良い感じになっていると思います」
「そうですか? よかったです」
 美言の言葉に悠希が安心していると、美言がちらりと悠希の手元を見て言う。
「ところで新橋先生、今日の用事はプロットの確認だけではないでしょう?」
 手元の小さな紙袋を見て、悠希は顔を真っ赤にする。
「そうなんです。あの、先日のお返しの中継ぎをお願いしようと思って」
 ぎこちない手つきで悠希が紙袋をテーブルの上に乗せる。
「仕事以外のお願いを頼んじゃって、迷惑にならないかは心配なんですけど」
 緊張した様子でそう言う悠希に、美言はにっこりと笑顔を向ける。
「迷惑なんてことはありませんよ。
縁結びも、我々の大事な仕事ですから」
 それを聞いて悠希も安心したようだ。
「あの、それじゃあ、お手数おかけします」
「はい、お任せ下さい」
 お互い頭を下げてから、今後の予定を確認する。今度もう一度プロットを再考してから来ることになるので、次に紙の守出版に来るのは、すこし先になりそうだった。

 美言にホワイトデーのお返しを託してから数日後、悠希の携帯電話にメールがはいった。誰からだろうと思いながら携帯電話を開くと、送信元は千代子で、今度お互い空いている日に会わないかという内容だった。
 思わす悠希は顔を赤くする。
「鎌谷君、あの」
 慌てた様子の悠希が、窓際でうたた寝している鎌谷に話し掛ける。
「ココアさんから一緒に会わないかってメールきて、それで」
 期待と不安がないまぜになっているその言葉に、鎌谷は悠希のことをちらっと見て返す。
「ひとりで行ってこい」
「え?」
「今回ばっかりはひとりで行かないとだめなやつだろ」
 突き放すようなその言葉に、悠希は狼狽える。
「でも、鎌谷君……」
「でもじゃない。いつまでも俺に甘えてちゃだめだ」
 本当は鎌谷も悠希のことを心配しているのが窺える。だからだろうか、悠希はぎゅっと目を瞑ってから、携帯電話に向き直って呟く。
「僕、頑張ってくるよ」
 その言葉を聞いて、鎌谷はぴくりと耳を動かし、昼寝の続きをはじめた。

 初めて千代子からメールが届いて数日後、悠希は千代子と待ち合わせている新宿東口改札の前に立っていた。
 気持ちがはやってだいぶ早く来てしまったけれども、千代子はどの程度の時間に来るのだろうか、時間通りに来られるだろうかと、そんな事を考えてそわそわしながら何度も携帯電話で時間を確認する。
 沢山の人が流れていく改札。それをじっと見つめて、千代子の姿を探す。
 携帯電話の時計が待ち合わせ十分前の時間を表示している。それを確認していると、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「新橋先生、お待たせしました」
 そう言って早足で悠希の元にやって来たのは、今まで見たことがない可愛らしい服装の千代子だった。
 嬉しそうな、緊張したような顔をする千代子に、悠希も緊張しながら声を掛ける。
「こんにちは、藤代さん。
ここまで来るのに疲れたでしょう。一旦どこか喫茶店に入りませんか?」
 その提案に、千代子は賛成する。悠希は千代子にどこか希望の店はあるかと訊ねて、このあたりには詳しくないと言われる。それならばと、悠希が知っている喫茶店に案内することにした。

 喫茶店に入り、飲み物とケーキを注文する。店内は暗めの照明でお互いの顔が少し見づらいけれども、緊張した表情を見られるのはお互い望むところではないだろうので、丁度良いかも知れない。
 飲み物とケーキが運ばれてきて、悠希が改めて話し掛ける。
「今日は僕を誘っていただいてありがとうございます」
「いえ、こちらこそ……」
 もじもじした仕草を見せる千代子を見て、悠希は言うべき事を頭の中で何度も確認する。それから、一度深呼吸をして、千代子の方を見てこう言った。
「先日のお返しに入れておいた手紙にも書きましたけれど、改めてお願いします」
 千代子が緊張した顔で悠希を見つめ返す。悠希が一呼吸置いて、こう告げた。
「僕とお付き合いして下さい」
 少し勢いをつけて言ってしまったせいだろうか千代子が驚いたような顔をする。それから、ぽろぽろと泣きはじめてしまった。
 悠希は鞄の中からハンカチを取りだし、千代子に渡す。そのハンカチで、千代子は涙を拭ってこう返した。
「ほんとうに、ほんとうに私と付き合ってくれるんですか?」
 不安そうな千代子に、悠希は優しく返事をする。
「はい。僕もすごく悩んだりはしましたけど、でも、藤代さんとならこれから上手くやっていけると思って」
 それを聞いても、千代子はしばらく泣いていた。無理に泣き止ませようとするよりは落ち着くまで待った方が良いだろうと、悠希はそっと見守る。そうしているうちに涙も止まってきたようで、千代子はハンカチを顔から離してはにかむ。
「このハンカチは、あとで洗って返しますね」
「はい」
 今までと比べて距離が縮まったように思えたのか、悠希も嬉しそうな顔をする。千代子がハンカチをしまってから、ふたりはケーキに手を着けはじめた。
 ふと、千代子がこう提案した。
「あの、よかったらこのあと、デートしませんか?」
 少し恥じらうようにそう言われた言葉に、悠希は真っ赤になる。
「藤代さんがそう言うのでしたら、もちろんご一緒します」
 緊張した声でそう返すと、千代子がおずおずとこう続けた。
「それで、あの、新橋先生のこと、悠希さんって呼んで良いですか?」
「あ、それに関しては、いままで散々フルネームを連呼されているので構いませんよ」
「あっ、そうだった……」
 赤いクラゲでのことを思い出しているのか、千代子が少し気まずそうな顔をする。一方の悠希も、そう言えばそんな事があったと思っているのか妙に感慨深げだ。
 それから、今度は悠希が少しもじもじしながら千代子に訊ねる。
「それじゃあ僕も、千代子さんとお呼びしても良いですか?」
「あの、それは……」
「それともココアさんの方が良いですか?」
「千代子でお願いします」
 そんな話をしてお互い笑い合って、楽しいひとときを過ごしたのだった。

 喫茶店を出たふたりは、早速デートをしようと街へ繰り出す。けれども、どちらもデートというのは何をすることなのか、わからないようだった。
「とりあえず、デパートでも見ますか?」
 悠希がそう提案すると、千代子はそれで良いという。ふたりで街を歩いてデパートへと向かっていると、ただ歩いているだけなのに、何故だか嬉しく感じられた。
 デパートに着くと、千代子が化粧品売り場を見たいというので、まずはそこに向かった。
 化粧品売り場で、千代子が難しそうな顔をする。
「どうしたんですか?」
 不思議に思った悠希がそう訊ねると、千代子は口紅のサンプルを手に取って答える。
「実は、いつも子供っぽく見られから、大人っぽい色の口紅とか欲しいって思うんですけど、似合うかどうかがわからなくて」
「なるほど」
 事情を聞いて納得した悠希は、一本の口紅のサンプルと手に取る。ゴールドラメの入った、ローズ系の大人っぽい色だ。
「千代子さんはこれとか似合うと思いますけど」
「そうかなぁ、ちょっと大人っぽくて私には……」
「見た感じ、千代子さんはブルベなのでいけると思います」
 悠希の言葉を聞いて、スウォッチも見ずにそう判断出来てしまう悠希の目が、ちょっとだけこわいなと千代子は思ったようだった。

 千代子とのデートから数日経って、悠希はまた手を入れたプロットを持って紙の守出版編集部を訪れた。
「新橋先生、こんにちは」
「こんにちわ。先日はどうもありがとうございます」
 出迎えてくれた美言と軽く挨拶をすると、そのまま応接間へと通される。応接間のソファに腰掛け、美言が扉を閉めたところでこう言われた。
「うまくいったようですね」
 それが千代子とのことだというのは容易く把握出来た。このことは千代子から聞いたのかとも思ったけれども、どうにも違うようだ。けれども、紙の守出版の人達は、どこからどう言う情報を仕入れていてもおかしくはないので特に気にしない事にした。
 美言にお祝いを言われ、すこし照れくさい思いをしてからプロットの確認をする。プロットノートを見ていて悠希は、この原稿も千代子が校正するのかと思うと、嬉しいような恥ずかしいような。複雑な気持ちだ。
 ふと、美言が驚いたようにこう言った。
「新橋先生、とてもよくなってます。なんていうかこう、前より人間味があると言うか」
「そうですか? よかったです」
 一体自分がどう変化したのか、それは悠希には自覚が無かったしわからなかったけれども、千代子の存在が自分をいい方向に変えてくれているのかも知れないと思ったようだった。

 

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