第十章 マリッジブルーの余波

 プロットの組み立てで忙しいある日のこと。そろそろどこかに出かけて気分転換がしたいなと思っていると、悠希の携帯電話が鳴り始めた。鎌谷が顔を上げて見守る中、悠希は携帯電話を開いて着信を取る。
「はい、もしもし」
 今回は珍しく友人からの着信だ。何があったのだろうと思いながら応答すると、些か暗い声が聞こえてきた。
「よう、悠希。今日これから暇か?」
「これから? そろそろちょっとどこか出かけたいなと思ってた所なんだけど、アレクはなにかあったの?」
 発信元は、ゲーム会社に勤めている友人のアレクだ。普段はもっと明るい調子でいることが多いのだけれども、仕事で疲れているのか心配事があるのか、どうにも覇気がない。
「とりあえず、電話で話すだけってのもなんか、落ち着かないからさ、これから秋葉原で会わないか?」
「それはかまわないよ。じゃあ待ち合わせどこにしようか」
「なんか急で悪いな」
 いつもは悠希を元気づけてくれるアレクがこんな様子だなんてと、悠希はどうしても心配になってしまう。待ち合わせ場所と時間を決めて、悠希は早速出かける準備をする。
「おう、アレクがどうしたんだ?」
「なんか悩み事があるみたい」
「なるほどな、俺も行った方が良いか?」
 いつも首に巻いている風呂敷に目をやっている鎌谷を見て、悠希は少し考える素振りを見せる。悠希だけでアレクを元気づけられる自信は、どうにもない。なので、犬好きのアレクのために、鎌谷にもついてきてもらうことにした。

 それから数十分後、悠希は鎌谷と一緒に秋葉原の電気街口でアレクのことを待っていた。悠希の心配と不安が鎌谷にも伝わっているのだろう。鎌谷は悠希の手にずっと肉球を押しつけている。
 しばらく待つと、改札に大柄な男性の姿が見えた。伸ばしっぱなしの金髪を後ろでまとめたその男性は、少し明るい表情で悠希に近づいてくる。
「よう、悠希。急に呼び出して悪いな」
「ううん、アレクもなにか相談したいことがあるんでしょ?
もし僕だけで不安なら、鎌谷君もいるし」
「それはちょっと期待してた」
 悠希と話して笑顔になったアレクと呼ばれた男性は、鎌谷の方へ視線を落とす。
「鎌谷君も久しぶりだな~」
「おう、ひさしぶり。揉むんだろ。揉めよ」
 わかっているという表情で鎌谷がアレクに顔を向けると、アレクは両手で鎌谷の頬をむにむにと揉んでいる。
 アレクがひとしきり鎌谷の頬を揉んだところで、話が有るならどこかお店にはいろうと悠希が提案する。少しだけ相談した結果、駅ビルに入っているパティスリーに行くことになった。

 パティスリーに入り、席に通される。このパティスリーは駅のホームの側に有って、窓からは電車が通っていく様がよく見える。
「あー、どれもうまそう。どれにしよっかな」
 メニューを見ながらアレクが楽しそうに言う。なんだかんだ不安があると言いながらも、食べる事自体は楽しみなのだろう。
 なんとか全員注文するものを決め、店員にオーダーを伝える。少し待つと飲み物が先に用意された。
 アイスコーヒーにガムシロップとミルクを入れてかき混ぜているアレクに、悠希が訊ねる。
「ところで、今日はどんな話が有るの? なんか、悩み事があるみたいだけど」
 すると、アレクは少し表情を暗くしてこう言った。
「悠希は、兄貴が結婚するの知ってるだろ?」
「カナメさんが? うん。結婚式の招待状来たよ」
 アレクは、見た目からだと想像しがたいけれども、悠希の友人であるカナメの弟だ。カナメはだいぶ前から婚約自体はしていたようだけれども、ようやく結婚と言うところまで進んだのはここ最近のことだ。
 カナメの結婚がどうしたのだろうと不思議に思っている様子の悠希に、アレクはこう語った。
「実は、兄貴が結婚するのが不安でさ。
いや、相手の人に不満があるとかそう言うんじゃなくて、相手は兄貴にはもったいないくらいの人だってのはわかってるんだけど、でもなんか、兄貴が結婚するってなると、漠然と不安で、なんかさ……」
 だんだんしょんぼりしてきたアレクを見て、悠希はどんな声を掛けたら良いのかがわからない。漠然とした不安を捉えると言うのは、悠希が苦手とするところだ。
 すると、鎌谷が真面目な顔をしてこう言った。
「もしかしてあれじゃね? カナメが兄じゃなくなるのがこわいんじゃね?」
 それを聞いて、悠希は意外といった顔をする。
「え? でも、カナメさんは前から女の子になりたいって言ってたよ? アレクもそれには別に」
「女の子になる事自体はまー別に兄貴のやりたいようにって感じなんだよな」
 アレクも、鎌谷の言葉は意外に感じたようでそう言う。すると、鎌谷は頭を振ってこう続ける。
「そうじゃなくてさ、カナメが結婚したら、すぐに頼りにするってできなくなるだろ。それが不安なんじゃないかって」
 それを聞いて、アレクはすとんとなにか落ち着いたようだった。
「あー、なるほど、それはあるかも」
 鎌谷の言葉に、アレクは納得した様子だ。
「アレクも、いつまでもカナメさんに頼ってばっかりじゃだめだよ」
 悠希がそう言うと、アレクは額を押さえて溜息をつく。
「それはわかってるんだけど、俺よりも俺の弟の方が心配なんだよなぁ。そこのところは」
「ああ、アレクの弟さん、甘えん坊なんだっけ」
 アレクとカナメの弟、末っ子の話は、たまに悠希もアレクやカナメから聞いている。とにかく昔から甘えん坊で、それが今でも抜けきっていないようだった。
「悠希は、兄貴が結婚するのに不安とかないのか?」
 そう聞かれた悠希は、考える素振りを見せてから答える。
「んー、まったく不安がないわけじゃないけど、ふたりが決めたことだし、僕はお祝いしたいな」
 その言葉に、アレクは安心したらしい。ここまで来てようやく、カナメの結婚式がどんなものになるのだろうと言う話をする事ができた。

 しばらくカナメの結婚式の話で盛り上がり、ふとアレクが悠希に訊ねた。
「そういえば、悠希の周りで結婚してるやつっている?」
 その問いに、悠希は斜め上を見てから答える。
「そうだなぁ、学生時代の友達が何人か結婚してるし、高校の先輩もこの前結婚したよ」
「うわ、それって自分も結婚しないとって焦らないか?」
「いや別に……」
 もしかしたらアレクも、身の回りの人が結婚していくことでプレッシャーを感じているのではないかと、悠希は感じたようだ。そんな空気を察してか、鎌谷がアレクに訊ねる。
「そういえばアレクは、七海ちゃんとの結婚は考えてるのか?」
 突然恋人の名前を出されたからか、アレクが驚いたような顔をしてから、慎重に答える。
「七海なー。もちろん視野には入れてるけど、七海がいつその気になるかだなぁ」
「なるほどなー。やっぱ合意が必要だもんな」
 アレクと鎌谷がそんな話をしているのを聞きながら、悠希は運ばれてきていたブルーベリーパイを口に運ぶ。結婚するにも、色々な駆け引きがあるのだなと悠希が思っていると、突然アレクから声を掛けられた。
「そういえば、悠希は誰かいい人いないのか?」
「え? 今のところは特に」
 ほんとうに予定がないと言った様子の悠希を見て、鎌谷が鼻で悠希の腕をつつく。
「お前もさー、はやく嫁さんもらって俺を安心させてくれよ」
「そうは言われても、うーん」
 鎌谷の言葉に少し考えて、悠希はこう返す。
「僕のことを好きになってくれる人がいたらね」
 それを聞いて、鎌谷は溜息をつく。
「自分から好きな人にしておけ」
 なるほど、と悠希は思う。余り受け身ばかりでもよくないだろう。結婚というのは、長く共に時間を過ごす人と結ばれることなのだから。
 鎌谷はさらに言葉を続ける。
「まあ、好きとかそう言うの無いにしても、一緒に生活しててお互い尊重出来て快適な相手にしときな」
「そうだね」
 一緒に暮らす相手を選ぶにも、いろいろな見方があるなと、悠希は思ったようだ。結婚するというのは難しいような、単純なような、複雑なような、不思議なものだ。これを理解出来る日が来るのか、悠希にはわからないようだった。

 

†next?†