昔々、文明がちょっとだけ発達した頃。
治水に長け、民達に慕われる王が統治しているある国。
王宮で王に仕えるとある書記官は、庭にある池が、月を映しているのを眺めるのが、とても好きでした。
暑い日が過ぎ、夜には涼しい風が吹くようになった頃。その日は満月で、何故だかいつもより大きく月が見える気がした。
風に吹かれ微かに波立つ庭の池。その水面には、揺らめきながら真っ白な月が映っている。池のすぐ側に配された、膝の高さよりも少し大きい岩。そこに、宮廷風の服を着た藍色の髪の青年が座っていた。真っ直ぐに見えるけれども、毛先が少しだけ丸まっている長い髪を背中で纏め、風に吹かれるままにしている。彼は平凡な顔つきだけれども、微かに口角が上がった口元と、穏やかな目つきからは人の良さがうかがえた。
彼はぢっと、池の水面を眺める。ゆらゆらと揺れる月はなにも言わないけれども、見る人の心を穏やかにさせる物だった。
ふと、水面が乱れた。何かと思い彼が視線を上げると、池の中にある大きな岩の上に、黒く大きな翼を持った、人間のようなものが立っていた。
「羽民人……?」
彼がぽつりとそう呟くと、黒い翼を持った人が、彼に視線を向けた。月明かり以外何も無い夜であるにもかかわらず、その人の瞳の色は、あまりにも鮮烈で印象的だった。
鳩の血の色をした瞳を向け、その人は彼に言う。
「お前と話がしたい」
彼は戸惑った。初めて見る、得体の知れないいきものにそう言われて、会話をしても良い物かどうかと思ったのだ。
少しだけ悩んで、彼はその人を見る。何故だか寂しそうに見えたその人に、彼はこう返した。
「構いませんよ。
よろしければ隣に来てはいかがですか?
一緒に、月を眺めましょう」
相手に見えているかはわからないけれど、にこりと笑って彼が言うと、翼を持ったその人はふわりと浮いて、彼の隣に降り立った。
ふたりは、暫したわいもない話をした。彼がこの王宮で何をしているのか、そんな話だ。
ふと、翼を持った人がこう訊ねた。
「先程お前が言っていた、『ユミレン』と言うのは何だ?」
その問いに、彼は驚いたように答える。
「『羽民人』と言うのは、あなたのように翼が生えた人間のことです。
結構昔話とかに出てくるので、知っている人は多いと思っていたのですが」
翼の生えた人は、納得した様に返す。
「なるほど、この国の人間達は、私達をそう呼んでいるのか」
少しだけふたりとも黙り込んで、お互いの顔を見つめ合う。彼の翡翠色の瞳が、羽民人の白い顔を捉え、優しい声が唇から紡がれる。
「こんなにうつくしい生き物を見たのは、初めてです」
羽民人が目を逸らす。それから、彼に訊ねた。
「お前の名を知りたい」
「私の名前ですか?」
「そうだ」
彼は少しだけ不思議そうな顔をしたけれども、軽くお辞儀をして答える。
「私の名前はランと申します」
すると羽民人は、ランの長い髪を見つめ、上から下へと視線を流した。
「そうか、お前の名前は、ランというのか」
確認するように言う羽民人に、今度はランが訊ねる。
「よろしければ、あなたの名前を伺いたいのですが」
羽民人は、再びランと視線を合わせて答える。
「私の名前はシエと言う」
「シエさん、ですか」
それから、言葉もなくふたりでまた、視線を送り合う。シエは覚えようとするかのように、ランの顔かたちを事細やかに見る。ランは、黒い服に包まれているけれどもそこから覗いたシエの白い手と、細い首筋、薄い唇と気弱そうに下がっている眉、それらを見た後に、余程目に付くのか、紅の瞳をぢっと見つめていた。
どれだけそうしていただろうか、夜風が、冷たくなってきた。
シエが翼を広げてランに言う。
「これ以上ここにいると体に障るぞ。
私も、そろそろ帰らせて貰う」
そう言ってふわりと宙に浮き、背を向ける。その背に向かってランが声を掛けるた。
「またお会いしましょう」
その声はシエに届いていたかどうか、わからない。だけれども、何故だかまた会える気がしたのだ。
翌日、ランはいつも通りの職務をこなしていた。ランの仕事は、この国の王である兎王の書記官だ。政に重要なことを、筆で竹簡に書き留めていくのだ。それに加え、最近はひとつ、仕事が増えた。それは何かというと、兎王が所蔵している宝物に付けられた物語を、記録することだった。
物語を紡ぐのは、平民の少女だ。この王宮に玉を売りに来る前までは貧しい生活をしていたと言う彼女だけれども、玉を売る際に物語を付けて売るという事をしていたのを兎王が聞きつけ、宝物庫にある宝に物語を付けさせているのだ。その少女は、もちろん文字が書けないし、読むことも出来ない。けれども彼女が紡ぐ物語は優しく、時に勇ましく、人の心を惹きつけてやまない物だった。はじめ、この仕事を任されたときは不思議に思った物だったけれども、一度紡がれた物語を聞いたその時から、少女の物語を記すのが自分だという事に、ランは誇らしく思ったのだった。
兎王の政の書記が一通り終わり、ランは兎王と、宮廷を訪れた少女と三人で宝物庫へと向かう。うつくしいもの、はなやかなもので満たされた宝物庫の中で、兎王が青銅で出来た鳥の器を指さして少女に命じる。今日はこの器に物語を付けさせるようだ。少女はじっくりとその器を眺めたあと、淀みなく物語を紡ぎ始めた。ランはそれを書き留めていく。かつて天にいたけれども、人の温もりを知り地上にいる事を選んだ鳥の物語だ。短い物語を記し終わった後、ランはぼんやりと、シエの事を思い出していた。
初めてシエに出会ってから暫く経ち、新月の次の晩、細い月が浮かぶ夜のこと。ランはまた、庭の池に映る月を眺めていた。
水面が揺れると、儚く消えてしまいそうな細い月。月明かりも心細く、周囲は真っ暗であった。そんな中、水面が激しく揺れ月がかき消えた。ランが視線を上げると、先日と同じように、池の中にある石の上に、シエが立っていた。
ああ、また会えたのだなとランが思っていると、聞き覚えのある声が届いた。
「話をしよう」
見えているかはわからないけれども、ランは軽く手を上げ、袖を押さえながら手招きをした。
初めて会ってからどれだけの時が経っただろう。ランとシエは、特に約束などもせず、池のほとりで時偶会っては話をした。
いつのことだったか、ランはシエに訊ねた。何故自分と話そうと思ったのか。と。シエはこう答えた。お前をずっと探していた。それを聞いたランは、あの満月の晩初めて会った筈なのに、何故シエが自分を探していたのだろうと、不思議に思った。けれども、羽民人と人間では、きっと物の考え方が違うのだろうと、特に追求はしなかった。
初めて会ってから、本当に、長い時が過ぎた。いつしかランは老い、けれどもシエは若くうつくしいままで、ランに不安を抱かせた。いつまでも老いることのないシエのことを、誰かに知られたら、きっと良くないことになると思ったのだ。
月が妙に大きく見えるある晩のこと、シエがランに訊ねた。
「寂しくは無いのか」
その問いに、ランは寂しそうに笑って答える。
「そうですねぇ、私には兎王様がいますし、兎王様お気に入りの彼女が紡ぐ物語も大好きです。
だからきっと、寂しいなどと言うのは贅沢なことなのだと思うのです」
それを聞きながら、シエがぢっとランを見つめる。
「けれども、わがままを言えば、随分と昔に家に置いてきた、弟達に会いたいです」
穏やかだけれども、鋭い刃のような言葉を漏らす。
「私は、貧しい家に弟達を置いてきた、ろくでなしなのです」
今まで、何度その刃で自らを刺し、切り付けたのだろう。月明かりで微かに見えるランの手には、沢山の疵が付いているように見えた。
「貧しい家の出なのに、お前は何故ここにいる?」
伺うようにシエがそう問うと、ランは昔を思い出しているのか、遠くを見ながら答える。
「街で稼ぐために、奉公に出たんです。しばらくそこで働いているうちに、運良く、なのでしょうか。兎王様の目に留まって、今ここでお仕えさせていただいています」
何故あの時兎王の目に留まり、そして仕えるようになったのか。詳しいことをランは語らない。もしかしたら、理由など知らないのかもしれない。
シエが目を伏せると、ランが優しく、寂しそうな声でこう言った。
「あなたは、もうここに来てはいけません」
息を呑む音が聞こえる。紅の瞳が、大きく見開かれた。
「いつまでも若くうつくしいあなたを見て、良からぬ事を考える人がいないとは言えません。
いまは人の話には上っていませんが、これから先、いつまでもこのままとは限りません」
低い声でシエが言う。
「人間が私をどうこう出来ると思うのか?」
翡翠色の瞳が、赤い瞳を見据える。赤の上に、歪んだ月が浮かんでいる。
「どうこうできるか、それはわかりません。
けれども、大勢に囲まれた時、何が起こるかもわかりません。
私はもう、もしもの時にあなたと共に戦う事は出来ないのです」
その言葉を聞いてか、シエは立ち上がり翼を広げる。そして月の方に顔を向け口を開いた。
「そうか。お前にこれ以上心配をかけるわけにはいかないな」
それからふわりと体を浮かせ、ランの方を向く。ランはしっかりとシエを見据える。
「もう、お別れですね」
シエは瞼を閉じて視線を遮る。
「ああ、これでおしまいだな」
羽音が響き、シエの姿が段々と夜空に溶けていく。池に映った月が、涙のように歪んでいた。
シエが池の畔に現れなくなってしばらく。ランは宮廷にある自室で横になっていた。彼にはもはや家族はいない。子どもは元より、妻も娶っていないのだ。体が動かないわけではないけれども、ひどく重い。今際の際だと言う事が、自分でもわかった。今までに自分が書き留めた数多くの物語。それを思い返し、気がつけばシエと会った時のことばかりが浮かんできた。
最期に一目、見ることが出来たら。そう思ってもここにはいない。来てはいけないと言ってしまった。
シエにはずっと、隠し事をしていた。失うのが厭だった。それが愛だと知っていた。そしてそれを知られるのがこわかった。
次第に意識が朦朧とし、混濁していく。最期の最期、何もわからなくなる前に、大きな羽音が聞こえた。