銭の穴

 私には弟が一人おります。
幼い頃から一緒に育ち、共に遊んだり、父に明治になる前の話を良くせがんでは並んで聴いていた物でした。
 私よりも三つ年下の弟を見ては、私は銭の穴の様に、そこにあるのは確かなのに、そこにない物が気になっておりました。
 どうして私には、弟が一人しか居ないのか、不思議でございました。

 私も年頃になり、父の知り合いの商家へと嫁ぐ事になりました。
大きな店を継いだ私の旦那様。そんな旦那様が私にこう仰ってきました。
「ああ君は、お裁縫が好きだったよね。
君が喜んでくれると思って、舶来品の自動縫い機を買ってきたよ。
古い物だけれど、君の様にうつくしいカラクリだよ」
 自動縫い機。と言うのが一体どういう物なのかはわからなかったのですが、旦那様は自動縫い機を置いてある部屋へと私を案内してくださいました。
 中庭から差す陽を照り返す、ぴかぴかに磨かれた廊下を歩き、朝日がよく入る位置にある部屋の、使い込まれた襖を旦那様が開きました。
 そうしますと、私の目に飛び込んできたのです。柔らかく陽の入る部屋の奥に、きれいな七宝が施された、重々しいカラクリが。
 台の下には鉄の棒の繋がった、これまた鉄の板が据えられ、台の上には曲げた腕の様な形をしていて、台に向かって頑丈そうな針が据えられているカラクリが乗っています。
 その何であるのかはわからないけれども、それでも目を引く七宝の細工が施されたそれは、本当に何であるのかはわからないのですけれども、何故か懐かしく思えてしまうのです。
 私は旦那様が売っていたお店で訊いてきたというこのカラクリの使い方を聴き、そんなに便利な物があるのですねと、そっと旦那様の手を取って、お礼を言ったのでした。

 その日から、私は家事を終えてひと休みする時に、あのカラクリの置いてある部屋で過ごす様になりました。
 偶に使ってはみるのですが、なかなか慣れない物で、上手には使えません。
それでも、旦那様から戴いた物だからでしょうか、あのカラクリがひどくいとおしい物の様に思えるのです。
 ふと、私は袂からいつも持ち歩いている御守り袋を取り出しました。
御守り袋といいましても、神社仏閣で戴いた物では無く、幼い頃に母から御守りにするようにと、弟共々貰った、一枚の銭が入った小さな巾着袋でございます。
 私は、御守り袋から銭を取り出し、その真ん中にある穴から、あのカラクリを覗きました。
 すると、気のせいでしょうか。カラクリの側に、人影がちらりと見えたのです。
旦那様や下働きの者かとも思ったのですが、銭から目を離して周りを見渡しても、部屋の中には、私以外誰も居りませんでした。

 あのカラクリの側に見えた人影の話を旦那様にお話したのですが、そうしますと、旦那様は、この家の近くにある、丘の上の教会の話を出してきました。
 私はいつ、切支丹の話などしたでしょうか。そう思ったのですけれど、旦那様は、丘の上の教会に勤める牧師さんと仲が良いらしく、悪いものを追い払ってくれるお香を戴いた事があるのだと聞かせてくれました。
 私には、あのカラクリの側に見えたものが悪いものだとは思えなかったのですが、どうにも、それが悪いものだと思い込んでしまった旦那様は、早速私を連れ、お香と香炉を持ってカラクリの有る部屋まで向かったのです。

 部屋に入って座り込んだ旦那様は、灰の詰まった香炉の中の炭に火を付け、薄い雲母の板を灰にのせ、その上に飴色をした石の様なものを載せました。
 これはコパルと言って、これが悪いものを除けてくれるのだよ。旦那様はそう仰いました。
甘く、少し眠たげな、馥郁たる香りが部屋の中に漂います。
コパルから僅かに立ち上る煙。
 この煙が、あの人影を追いやってしまうのか。そう思うと何故だか、ひどく悲しい様な気になってしまいました。
私が思わず目を伏せると、突然コパルから立ち上る煙が乱れたのです。
そして、旦那様が私の事を腕で引き寄せました。
 何事かと思って私があのカラクリの方を見やると、そこには背の高い、泣きそうな顔をした男性が立っておりました。
彼の顔を見てか、旦那様も悪いものだとは決めつけられなくなった様で、彼にこう問いかけていらっしゃいました。
 お前はこの家に来て何をしたいんだい? もし仏様や神様の救いが得られていないのであれば、私が相談に乗るよ。旦那様がそう仰いますと、彼はあのカラクリを撫でながら、ひどく辛そうな声で話しました。
 なんでも、元々あのカラクリは彼の二人居た兄のうち一人の物で、ずっとあのカラクリと一緒に兄の事を探しているのだと言うのです。
彼は、兄のことを少し話してくれました。
仕立て屋を営んでいて、裁縫を教えてくれた優しい兄。このカラクリを買った時、とても喜んでいたと。その兄と死に別れてから、ずっと会うことが出来ないと、震える声で話しました。
 ああ、なんて辛い事なのでしょう。私も弟が居ります。弟とずっと会う事が出来なくなったら、それはもう、ひどく辛い事です。
 そう思っておりましたら、彼は私の手を取ってこう言うのです。やっと見付けた。と。
 どういう事なのか、私にはわかりませんでした。けれども、彼を見ていると、まるで銭の穴を覗いている様な気持ちになりました。
そこに確かにあるけれども、そこには無いもの。
 旦那様がこう仰います。遠い昔、君たちは兄弟だったのかも知れないね。
 もしそうなら。旦那様が仰るとおりなのなら、そう思いました。
どこを探しても居なかった、二人目の弟。それを探していた私のこころに、ぴたりと塡まったのです。
 彼が私の弟なら。そう思った私は彼の手をぎゅうと握り返して言いました。
「あなたが私の弟なのなら、また生まれ変わって、私の家族になってくださいまし。
私、あなたに会えるのをまた、楽しみにしていますから」
 そう致しますと、彼は瞳からぼろぼろと涙を零して、こう言いました。
「また会いに来るまで、ここで待ってて」
 そうしてそれっきり、姿を消してしまいました。

 それ以来、あのカラクリを銭の穴から覗いても人影が見える事は無くなりました。
彼は本当に、私に会いに来るのか。それを心待ちにして日々を過ごしておりました。
 そうしている内に、私は旦那様の子供を授かりました。
旦那様も、旦那様の両親も、私の両親も、弟も、喜んでくださいました。
 旦那様は、このお腹の子は、早く私に会いたかった彼かも知れないねぇ。と仰っていました。彼が私の所に会いに来たのか、それはどうなのかわからないのですが、大事に、大事に、お腹を抱えました。

 

†the end†