第六章 栄光を捨てて

 ルクスの館から帰ってきたウィスタリアは、 ひとり部屋に閉じこもり泣いていた。あらかじめ忠告されていたにも関わらず、 それを忘れて罠に掛かってしまったことが不甲斐なかった。それに加えて、自ら望んだことでは無いとは言え、 神の禁忌を冒してしまったことが恐ろしかった。

 ふと、部屋のドアをノックする音が聞こえた。その音すらこわくて、 ウィスタリアは身を震わせる。ノックの後に聞こえてきたのは女性の声。

「ウィスタリア、部屋に籠もってどうしたの?」

「ごはん食べてないでしょう、お腹は空いてない?」

「食堂行くのが面倒って言うんだったら、パン持って来たから一緒にたーべよ?」

 どうやら、プルミエールとハーモニーオとベルがやって来たようだ。あの三人なら、何も怖がる必要は無いだろうと、 涙を拭いてドアを開ける。すると、プルミエールが驚いた顔をする。

「どうしたの? そんなに目の周りを真っ赤にして。なにかひどい目に遭ったの?」

 ひどい目に遭ったのかと言われれば、その通りだ。黙って頷くと、あの時のことがありありと思い出されてしまい、 また涙が零れてきた。目の前で泣いているウィスタリアを見たプルミエールは、自分よりも大きい体に腕を回し、 しっかりと抱きしめる。

「あなたをそんな目に遭わせた人の事、私は絶対に許せない。

きっと、すごくこわかったのよね。こわくなくなるまで、泣いて良いから」

 背中を優しく叩いてくれている感触を感じながら、ウィスタリアは泣いた。泣いて、泣き崩れて、 暫くプルミエールにその身を任せていた。

 

 散々泣いた後、ウィスタリアはプルミエール達が持って来てくれたパンを食べて、 ようやく少し落ち着いた。ハーモニーオもベルも心配してくれていたが、それでも、 自分がどんな事をされたのかを言う勇気は無かった。暫くプルミエール達と話して、あの三人が戻った後、 ウィスタリアはベッドの上でぼんやりと考え事をした。このまま歌手としてオペラ一座に所属していたら、 またあの様なおぞましい事をされるのでは無いか。その恐怖があまりにも大きかった。 歌手としての生活が嫌なわけではない。むしろ歌手として身を立てられていると言う事は、自分の誇りだ。それでも、 その誇りを投げ捨ててでもここから逃げたかった。もうこの街に来る事さえ無ければ大丈夫なのだろうか。それとも、 他の街にもルクスのような事を考えている者が居るのか。いや、もしかしたらオペラ一座や、 それを取り仕切る音楽院の中にも……不安は尽きない。このまま歌手を続けるか、それとも、 歌手を辞めて両親の元に帰るか。そんな事を考える。歌手は辞めたくない。だけれども、 このまま続けていくのはこわい。ふたつの思いの間で揺れ、また涙が零れてきた。

 

 その翌日、ウィスタリアは座長に一通の手紙を渡した。この手紙を、 音楽院に届けて欲しいとそう言って。座長は驚いた顔をしたけれども、わかったと一言だけ言って、手紙を受け取った。

 座長に手紙を渡し、食事のために食堂に行く。食堂内を見渡すと、どうやら今日は、 プルミエール達と時間が合わなかったようだ。テーブルに着き、注文をする。料理が届くまでの間、 ぼんやりと今後の事を考える。自分が下した決断は本当に正しいのか。いや、 正しいかどうかは問題ではない。自分が納得できるかどうかだ。そんな事を考えている間にも料理が運ばれてきた。 固いブールを千切って、菜っ葉と人参が入ったスープに浸して食べる。何故だかいつもよりも味気なく感じた。

 美味しく感じない料理を食べていると、食堂の入り口から声が聞こえてきた。

「よーうウィスタリア。一緒に飯食おうぜ!」

 高いけれども、明らかに男性の物であるその声に、心臓が跳ね上がる。彼はあんな事はしない、そう自分に言い聞かせ、 声の方を向くと、ドラゴミールとシルヴィオが立っていた。心配をかけてはいけないからと、 何とか笑顔を作って返事を返す。

「二人が良いなら構わんよ。おれはもう食べ終わるけど」

 そうすると、ドラゴミールとシルヴィオの二人はウィスタリアの元に来て、同じテーブルに着いた。それから注文をして、 二人の料理が運ばれてくる前に、ウィスタリアはすっかり自分の分の食事を済ませてしまった。それから少しだけ待って、 ドラゴミール達の分の料理も運ばれてきた。

「なんかごめんなー。食べ終わってんのに付き合わせちゃって」

 申し訳なさそうな顔をしながらブールを囓るドラゴミールに、ウィスタリアは何とか笑みを作って返す。

「いや、いいんだよ。あんまりこうやって話す機会も無いしさ。

特にシルヴィオは」

「確かに、言われてみると僕は余りウィスタリアと話したことが無いな」

 たわいも無い話をして居るだけなのに、 この二人がこわくて仕方が無い。この二人は何もして居ないのに。自分の中の感情に板挟みになりながら、 和やかな風を装う。

 ふと、ドラゴミールが訊ねてきた。

「そう言えば、ウィスタリアは来シーズンの衣装とか諸々注文した?」

 出来れば、それは訊かれたくなかった。本当なら、昨日今日辺りで注文に行くつもりだったのだが、 それは出来なかったからだ。泣きそうになりながら、でもそれを押し殺しながらウィスタリアが答える。

「ああ、おれ、音楽院辞めて実家に帰ることにしたんだ」

 テーブルの上に置いた手が震える。ドラゴミールを見ると、呆然とした顔をしていて、 ウィスタリアの手と同じように震える声でこう言った。

「……え? なん……なんで、辞め……」

 今にも泣き出しそうなドラゴミールに、ウィスタリアはつとめて明るい口調で返す。

「急な話でごめんな。

詳しくは話せないんだけど、音楽院からなんか言われたわけじゃないってのは言っとくよ」

 そう、詳しくは話せない。どうして辞める事にしたのか、そんな話は友人には聞かせたくなかった。

 

 それから数日後、ウィスタリアは荷物をまとめて逃げるように街を離れた。実家のある村までは、 ここからどれだけ離れているのだろう。歌手をやっている間に貯めたお金は沢山有るけれども、 故郷に戻るまで足りるかどうかが不安だった。だけれども、もう舞台に立つ事は出来ない。舞台に立つ事がこわいのだ。

 旅の途中でウィスタリアははたと思った。

 

 故郷に辿り着く前に、いっそ死んでしまえれば良いのに。

 

†fin.†