第四章 何でもない日

 ある日のこと、ウィスタリアは練習と本番の合間の休憩時間に店が建ち並ぶ区画を歩いていた。パン屋や肉屋、 それにチーズの店が軒を連ねている。入り口からひょこりひょこりと店内を覗いて、 目的の店を探す。入っていったのは店内に濃い香りが漂うチーズ屋だった。

 店内に並べられたチーズをじっくりと見て、何を買っていくか思案する。この日は、 先日食べてしまったドラゴミールのチーズのお詫びを買いに来たのだ。あの時食べてしまったのは、少し堅めで、 だけれどもほろりと崩れる、しゃりしゃりとした結晶の入ったチーズだった。あれと同じ物を買っていくべきか、 それとも、自分が選んだ物なら、と言っていたドラゴミールの言葉通り、 他の物を買っていった方が良いのかと思いを巡らせる。

 店内に並ぶ、円形のチーズ。白っぽい物からオレンジ色の物、表面が乾燥して茶色っぽくなった物など色々有る。

「あれ? あれ無いな。じゃあ違うの買ってくか」

 店内の棚を見渡して、先日ドラゴミールが買ってきた物と同じチーズが無い事がわかったので、 他のチーズをじっくりと選ぶ。あの時のように、 酒のつまみにするのであれば味が濃いチーズが良いだろう。白カビ、青カビ、 それから固いチーズ。それらが並ぶ棚の上を何度も往復して選んだのは、濃いオレンジ色のチーズだった。

「すいません、これを四ポンド下さい」

 店主にそう声を掛け、大きいオレンジ色のチーズを包んで貰う。ウィスタリアは代金を支払い、 大きなチーズを抱えて劇場へと戻っていった。

 

 買ってきたチーズを部屋に置き、夕食を食べた後は舞台の本番だった。裏に隠されたいくつもの装置と、 華やかに彩られた舞台。区切られた空間の中で役者が演じ、踊り子が舞い、 歌手が歌う。この演目でウィスタリアが担当するのは、踊り子が演じる妖精が踊っている場面のエールで、 歌に合わせて踊り子達が舞台の上を行き来している。この場面は、物語と物語の間に挿入されている、 観客が一息つくための休憩時間のような物だ。なので、観客からはあまり重要視されている場面では無かった。それでも、 舞台上が彩られていることには変わりなく、この空間をみんなで作り上げているのだという一体感が、 心地よい緊張をウィスタリアに感じさせていた。

 幕間の踊りが終わり、 舞台の上に居た合唱歌手と踊り子達が舞台袖に戻っていく。一通り出番の終わったプルミエールとハーモニーオとベルが、 ウィスタリアに話しかけてきた。

「お疲れ様。今回の歌も素敵だったね」

 プルミエールにそう言われ、ウィスタリアは照れたように笑って返す。

「そうだな。みんな練習してる甲斐が有るよ」

 一緒に練習して居る仲間のことを褒められるのは、嬉しい。ウィスタリアは素直にそう思った。

「プルミエール達も、かなり上手く行ったんじゃない? とても良かったよ」

 ウィスタリアのその言葉に、プルミエールは顔を真っ赤にしている。褒められて照れているのかなと思っていたら、 ベルが自慢げにこう言った。

「あたし達だって、日頃練習してるんだから。段々上達するのは当たり前だって」

 その言葉に、プルミエールも頷いている。ハーモニーオは、 その様子を見て困ったような笑みを浮かべていた。ハーモニーオが、舞台に目をやる。

「それじゃあ、終わるまでここから舞台見てようか」

「ああ、そうだな」

 舞台袖に雑然と置かれた倚子に腰掛け四人は舞台を見る。ふと、 ウィスタリアの目に反対側の舞台袖が入ってきた。向こう側では、 クライマックスを迎えた時のエールに参加するドラゴミールが立っていた。彼に手を振ると、 向こうも手を振って答えてくれた。

 

 その日の公演が終わり、一旦自室に戻ったウィスタリアは、 大きなチーズを持ってドラゴミールの部屋へと向かった。多少話し声は聞こえる物の、 十分に静かと言える廊下を歩く。目的の部屋に着いてから軽くノックをすると、すぐに返事が返ってきた。

「チーズ買ってきたから一緒に食べよう」

 中に向かってそう言うと、がちゃりとドアが開いて、中から嬉しそうなドラゴミールが顔を出した。

「ほんとに買ってきてくれたんだ。じゃあ食べよっか。

今丁度、シルヴィオと飲んでるところだったんだよ」

「そうなん? おれがお邪魔しちゃって良いの?」

「俺の部屋なんだから俺が良いって言えば良いの。ほら、中入って」

 ドラゴミールに誘われるまま中に入ると、きれいに切りそろえた紫色の髪を揺らしながら、 丸いテーブルにいそいそと倚子をもう一つ添えている男性が居た。彼が、ドラゴミールの友人のシルヴィオだ。

「ウィスタリア、この椅子に座ってくれ」

 そう言われて、ウィスタリアはシルヴィオが勧めてくれた椅子に大人しく座る。それから、 腕に抱えていたチーズをテーブルの上に置いた。

「おう、お邪魔するな。

それで、この前のチーズの代わりに買ってきたチーズなんだけど」

 そう言って、包みを剥がしてオレンジ色のチーズをふたりに見せる。それを見たドラゴミールはいたく上機嫌だ。

「おー、美味そう。早速切り分けようか」

 そう言って、既に用意されていた他のチーズを切るために用意されていたらしきナイフで、 オレンジ色のチーズを三角形に切ってから小さく切り分けている。一方のシルヴィオは、不思議そうな顔でこう訊ねた。

「この前のチーズの代わりって、一体何が有ったんだ?」

 その問いに答えるのはウィスタリアだ。

「実は、ドラゴミールが買ってきたチーズを、夜中寝ぼけておれが全部食べちゃって」

「そうなのか? こんなに大きなチーズを買ってくるほど高級なチーズだったのか?」

 いまいち腑に落ちないといった様子のシルヴィオに、ドラゴミールがにこりと笑ってこう言った。

「こいつ、四ポンドも一気に食いやがった」

「何を言ってるのかはわからないがわかった」

 ふたりのやりとりを聞いて、ウィスタリアは申し訳なさそうな顔をする。

「あの時はごめんな。あれと同じチーズ無かったから、ドラゴミールが好きそうで美味しいやつ買ってきたんだけど、 満足してくれる?」

 それを聞いたドラゴミールは、小さく切り分けたチーズをひとつつまんで口に入れ、少し噛みしめてから、 親指を立ててウィスタリアに向けた。それを見て、ウィスタリアはほっとした顔をする。

「それじゃあ、みんなで飲もうか」

 ウィスタリアの分のグラスも用意したドラゴミールが椅子に座り、ワインを注ぐ。今回のワインは、 深い赤色だった。三人でたわいの無い話をしながら、夜が更けていく。こんな何でもない日がいつまでも続けばと、 ウィスタリアは思った。

 

†next?†