第一章 悪魔払い

ある日の夜、私の教会の懺悔室に誰かが訪れた。

それが誰であるか、知る必要は無い。相手も知られる心配が無いから、安心して懺悔できるのだ。

……とは言え、今回の相談者は特徴的すぎる。

車椅子を漕ぐ音と共にやってきたその人は、いつもこの教会のミサに来ている仕立て屋だ。

最も、今では仕立てが出来ないそうなので、他の仕事をしているようだが。

「何が有ったのですか?迷える子羊よ」

カーテンで仕切られた懺悔室の中で、私は姿の見えない彼に問いかける。

すると彼は、甚く落ち込んだ様子でこう言った。

「悪魔に、取り憑かれたのかもしれないんです」

悪魔?何でまた急にそんな話に。

確かに、彼は温厚で真面目で努力家。他人の悪口など彼の口から聞いたことが無いほどで、 悪魔からすれば彼の魂は獲物として上物だろう。

取り敢えず、本当に悪魔に憑かれているかどうかは別として、何故そう思ったのかの経緯を訊くことにした。

すると彼はこう説明した。

最近朝起きると身体が異様に重いことが多く、偶に首筋に傷が付いていることも有ると言う。

どの様な傷か。なんでも軽い時は痣のような物が出来ているだけで済んでいるのだが、 時偶刃物で切り付けられたような、浅めの痕が付いているという。

「……僕は、弟達に迷惑ばかり掛けているから、神から見放されたのでしょうか……」

カーテンの向こうから聞こえる鼻を啜る音を聞いて、私はそっと言葉を掛ける。

「神はそう簡単に我々を見捨てたりはしませんよ。

身体が重く感じるのは、もしかしたら寝ても疲れが取れていないせいかもしれませんし。

ただ、傷が付いているというのは気になりますね。

懺悔室のルールから少し外れてしまいますが、少し診せて戴いても良いでしょうか?」

「えっ?

あの……はい」

許可を得た所で、私は一旦懺悔室から出て、彼の居る方へと回る。

緊張した様子の彼。その首筋に手を当て、よく見てみると確かに切り傷のような物が有った。

そこからは、微かに混沌の気配。

「少し待っていて下さい」

不安がる彼を懺悔室に置き、一旦部屋を出た私は、自室の部屋の中から一本のロザリオを持って来て彼に渡す。

「暫くの間、これを肌身離さず持っていて下さい」

彼の左手首を取り、長いロザリオを巻く。

いつも着けているブレスレットにも絡め、落ちないように何とか固定する。

それから、手の甲を私の口元に寄せ、祝福の言葉を掛けて唇を落とす。

「神父様、あの」

「あなたに魔除けのまじないを掛けました。暫くの間はこれで大丈夫でしょう」

それでも悪魔が怖いのか、微かに涙をにじませる彼の目元にハンカチを当て、車椅子を押して教会から出る。

「不安でしょうから、今日は送っていきますよ」

「あの、他の人が懺悔に来たらどうするんですか?」

「シスターに声を掛けて置いたのでやって置いてくれるでしょう」

半月が照らす中、私は彼の車椅子を押して、家まで送っていった。

 

それから数日後、満月の夜。

窓を開き、カーテンをたなびかせ、両腕を広げて逆さまに映る影が一つ。

「ああ、逢いたかったよ愛しい人。待っていてくれたかい?」

……と、私が言うと、目の前で漆黒のマントを広げている人影が凍り付いた。

引きつった口元から牙を覗かせ、震える声で私に言った。

「台詞もポーズも全部持ってかれた……っ!」

肌を見られた乙女のように窓辺から逃げ去るその影。

「二人とも有り難うございました。私はあいつを追います!」

「はい、お願いします神父様!」

「祓って下さるのは有り難いのですが、この演出必要だったんですかね?」

私は脚を引っかけている棒を支えていた二人に下ろして貰い、不審な影を追う。

マントを羽に替え夜空を舞うその影に、私はポケットから大きめの十字架を取り出して投げつける。

弧を描いて飛ぶ十字架が上手いこと眉間に直撃したようで、その影はふらふらと街の外れへと落ちていく。

当然追って行ったわけなのだが、私はその時、自分が管轄外の墓地へと向かっていることに気がつかなかった。

 

「さぁ、観念しなさい」

鎖で出来た鞭であの不審な影を拘束し、木の杭を相手の胸に当てる。

「嫌だ、私はまだ消えたくない……あの乙女の魂が欲しい……」

「あれすいません、人違いでした?あの家には女の子住んでませんよ?」

「してはいけない所を省略してしまった。

あの美しい乙女のような魂が欲しい!」

「ちょっともう相手がどちら様なのかわからなくなってきたんですが、我々人間の魂は悪魔には渡せません。 消えて貰います」

往生際の悪い悪魔の胸に、思いっきり杭を打ち込む。

すると悪魔はぐったりとし、足先から塵へと化していく。

ふと、悪魔に狙われていた彼の首筋の傷を思い出した。

何とも言いがたいもやもやが胸を覆ってきたので、思わず消え去りゆく悪魔の頭を一発殴ってしまった。

いけない、いくら相手が悪魔といえども必要以上に暴力を加えるのは良くない。私はなんて事を。

少し反省しつつ悪魔が消え去るのを見届け、教会へ帰ろうと後ろを振り向いた。

その時。

「……なんでしょうか、これは……」

墓地一面に、ぽっこりと出っ張ったお腹を抱え、それで居ながらも痩せ細ったモノが彷徨いていた。

 

それらは声を上げながら、私の周りを囲う。

徐々に囲いが狭まり、遂にその内の一匹が私の脚に噛み付いてきた。

「いたっ……!」

その痛みは、肉体的な物だけで無く、魂をも傷つけられているかのようだ。

この何だかわからない物も悪魔の一種か。そう思った私はロザリオを握り祝福の言葉を唱える。

けれどもそれらは、全く動じることもなく私に襲いかかる。

反対側の手で鞭を振り回し、何とかやり過ごす。

どうしたら良い。神の祝福も効かないこの数の悪魔に、私はどうやって立ち向かえば……

ふと、背後に清浄な気配を感じた。

「みんな、駄目だよ」

澄んだその声が聞こえた途端、悪魔達は私から身を離し距離を取る。

「あなたは?」

不思議に思い振り返ると、墓石の前に白い肌の男性が立っていた。

微かに微笑む彼の身体を見ると、所々が欠けている。

驚いて何も言えない私に、彼は申し訳なさそうにこう言った。

「すいません。この子達みんなお腹が空いてるみたいで、いつも食べ物を探してるんです。

普段は僕の身体を食べて貰ってるんだけど、こんな時間に生きてる人が来るのは久しぶりだから、気になったみたいです」

「あなたの身体を食べさせるって……」

彼は一体何者なのだろう。

自分の身体だけでなく魂までもが食べられているのに、それを甘んじて受け入れているなんて。

「あなたは死して尚、悪魔に取り憑かれているのですか?」

私の問いに、彼は頭を振ってこう答えた。

この悪魔のような者達は悪魔ではなく、ただお腹が空いているだけなのだという。

だから、きっと満腹になれば思い残すことも無く天に帰ることが出来るだろうとの事だけれど……

彼の話と、周りを囲むモノ達の姿を見て、何かが頭を過ぎっていった。

確か、小さい頃。私が教会に入る前、東洋出身だと言っていた母から聞いた話。

その話をする度に、母は父から厳しい言葉を受けていたけれども、私はその話を覚えている。

このモノ達は、『ホトケ』の救いを受けられなかった哀れな魂だ。

それに思い当たった私は、こっそりと、いつも持ち歩いている木のビーズで出来た輪っかを取り出し、 東洋の救いの言葉を唱える。

「ガゴンチョウセガン、ヒッシムジョウドウ……」

神の加護を受けている私が『ホトケ』の力を借りられるかはわからなかったが、 この哀れなモノ達を救うには力を借りるしかない。

必死に救いの言葉を唱えるが、力を借りられる気がしない。

「……ドウホツボダイシン、オウジョウアンラッコク!」

言葉を唱え終わっても、『ホトケ』からの救いはない。

このままでは、哀れなモノ達も、それらに身体を食べさせていると言う彼も救えない。

自分の無力さに膝をつきそうになったその時、天から声が聞こえた。

『よその子とは言え、そんなに一生懸命お祈りされたら仕方ないよね。

ごはんになっちゃったその子の事も有るし、今回は大盤振る舞いしちゃう』

それから、雪かと見まごうような、微かな光が降り注いで来る。

静かに光が降り積もり、哀れなモノ達を包み込む。

するとそれは、光の屑となって食べられていた彼以外の皆が天へと昇っていった。

『ごめんね、ホントはその子も何とかしたいんだけど、私の管轄外だからどうしようも無いのよ。

早めに天に帰れるように言って置くから、暫く待っててね』

一体何者の物なのかはわからなかったが、その声はどうやら、哀れなモノ達を救ったようだった。

 

その後、少し食べられていた彼と話をした。

一体何者なのか気になったので訊いてみると、貴族ではあるが何のことはない普通の人間だと言っていた。

ただ、話を聞く限り、普通の人とは思えなかった。

ミサの時によく居眠りをしていたから神も怒っているかもしれないけれど。と彼は言うが、 身体を食べさせていただけでなく、自分が死ぬ原因になった友人の事も許したという。

もし私が誰かに殺されたとして、その誰かを許す事は出来るのだろうか?

きっと難しいだろう。

こんな清らかな魂を、神が見捨てる筈はない。

早く彼が天に帰る事が出来るように。そう最後にお祈りをしてから、私はその墓地を後にした。

 

それから数日後。

「神父様、先日は有り難うございました」

車椅子を漕ぐ彼が、ミサの後私にそう話しかけてきた。

あの一件以来、首元に切り傷が出来る事は無くなったという。

ただ、痣のような物は偶に出来るようで、 少し不安ではあったけれど、一緒に寝ている弟の腕にも似たような痕が有ったりするらしく、 きっと虫刺されだろうとの事。

その話を聞いて思わず彼の弟二人の間で視線を泳がせてしまったけれど、もう大丈夫なようですね。と、 そう言葉を掛けて教会から見送った。

 

†next?†