第三章 夜の堕天使

 薔薇の花が咲き、日差しも強くなってきたある日のこと、一人の男がこの教会を訪れた。

今日はミサという訳では無いのだけれども、普段から私は街の人の相談を受けることが多いので、 やってきた質素ではあるけれどきちんとした服装の大柄な彼を、教会の長椅子に座らせ、 私もその隣に座って話を聞く。

 彼は、いつもこの教会のミサに来ている、カミーユという元仕立て屋の弟だ。

窓から差し込む、色硝子を通った美しい光とは対照的な、真っ青な顔をして彼が口を開く。

「神父様、実は、また兄貴に悪魔が憑いたんじゃないかって心配で、相談しに来たんですけど」

「悪魔ですか?」

 確かに、少し前のことになるが彼の兄は、悪魔に付け狙われていて、その悪魔を私が祓った記憶がある。

その時の悪魔は塵へと還したのだが、また別の悪魔が憑いたのだろうか。

あの後、カミーユ君の口から祓って以来悪魔のことは出てきていない。

彼、カミーユ君の弟であるギュスターヴ君の思い違いでは無いかとも思うが、なんだかんだでこの三兄弟は真面目だ。 この様な質の悪い冗談を言う様な人間では無い。

なので、私はギュスターヴ君から詳しく話を聞くことにした。

 大きな身体を縮こまらせて少し怯えた様子のギュスターヴ君が説明するには、 最近カミーユ君が知り合いの仕立て屋に刺繍を教えているらしく、教える度にお礼として真っ赤な薔薇を一本、 持ってくるらしい。

それを聞いて思わず私の心がもやっとしたが、それを表に出すこと無く話の続きを聞く。

なんでも、その時に渡される真っ赤な薔薇が、翌朝には真っ黒な花弁へと変わっているのだという。

カミーユ君は、時間が経つと黒くなる珍しい薔薇だと言って気にしていないそうなのだが、 ギュスターヴ君からすれば、そんな薔薇が本当に存在するとは思えず、悪魔の仕業なのかもしれないと思ったらしい。

 薔薇に関して言えば、私も教会の庭で薔薇を育てているのである程度詳しいつもりなのだが、 時間が経つと黒くなる薔薇等と言うのは聞いたことが無い。

悪魔の仕業だとしたら見逃す訳には行かないし、新品種ならそれはそれで見逃せない。

 私がその薔薇を見に伺っても良いかとギュスターヴ君に訊くと、 ギュスターヴ君は実は持って来ていると言って、 ずっと背中に隠していた左手を私の方に向け、手に持った黒い薔薇を見せた。

 その薔薇は、柔らかく反り返った花弁が各々鋭さを描いていて、まるで別珍の様な質感をしている。

色は、これが本当に赤かったのかと疑問に思うほど赤の片鱗を見せない漆黒。

 改めてこの薔薇を視界に入れて恐ろしくなったのか、視線を落としているギュスターヴ君から薔薇を受け取り、 じっくりと調べる。

茎は、緑色のまま。花弁は表も裏も黒い。そして、花弁をかき分けて花心を見ると、 本来そこは黄色くなくてはならないはずなのに、真っ黒だ。

花心に触れると、微かに伝わってくる邪なる物の気配。

 なるほど、これはギュスターヴ君の言う通り、悪魔の仕業だな。

そう判断した私は、悪魔が彷徨くのに都合が良い夜の間、暫くギュスターヴ君の家の周りを見て回ってみると伝えた。

 

 それからひと月ほど経った頃だろうか。 月が照らす安息日の夜、寝静まった街の物陰に身を隠しながらギュスターヴ君の家を見回っていると、 何者かが窓から部屋の中を覗き込んでいた。

 黒ずくめで黒く長い髪、男とも女とも付かない細い身体。そして白い手で窓に触れているその人影に、 私は声を掛ける。

「何を為さっているのですか?人の家を覗くのは良い趣味とは言えませんよ?」

 私は笑みを浮かべて、その人影に声を掛ける。

 その人影は禍々しい雰囲気を放ち、悪魔払いを生業としている私の目から見れば、明らかに悪魔に分類される物だ。

それでも、下手に神経を逆なでするのは良くない。自分の身が危なくなってしまうから。

 教会を出る前に腕に巻いてきた緑色と紫色の石で出来たロザリオの、十字架の部分をしっかりと握りしめながら、 私は人影に歩み寄る。

すると人影はこう言った。

「お前はそこの教会の神父だな?人の恋路を邪魔するのはやめて貰おうか」

 その言葉に、私の口元が引きつる。

まともな恋路なら昼間堂々と本人の所に行くべき等、色々と言いたいことは有るのだが、 彼が覗き込んでいるのは、先日私の所に相談に来たギュスターヴ君の兄、カミーユ君の部屋なのだ。

私だって、カミーユ君が寝ている所を覗き込んで寝顔を見たい。 そう思っているのにその人影は堂々と窓に張り付いているのだ。

思わず苛ついてしまい、私はその人影の首根っこを掴んで強引に窓から引きはがしこう言う。

「ストーキングするのはやめて貰えませんかね?」

「何をする!」

 人影がじたばたし始めたので後ろから羽交い締めにし、厳しい声で問いかける。

「あなたは何者なのですか?少なくともうちの教会では見ない顔ですが」

 すると人影は私の腕を振りほどこうとしながらも、落ち着いた声でこう言った。

「教会で見ることが無くて当たり前だ。私は堕天使だからな」

「これってこのままチョークスリーパーに移行した方が良い案件ですかね?」

 堕天使にしてはこの状況で私に対する抵抗がソフトだなと思いながらも、問いかける。

薔薇を黒くしているのはお前なのか。

お前の目的はカミーユ君なのか。

そしてカミーユ君を手に入れたとしてどうするつもりなのか。

そう言ったことだ。

堕天使は答える。

「ああ、薔薇を黒くしているのは私だよ。 今はカミーユというのかな?いずれ君を私の物にするという意味でね」

「彼を自分の物にしてどうするつもりなのですか?地獄にでも連れ去るつもりですか?」

 薄気味悪い口調で答える堕天使を押さえる腕に力が入る。

彼を堕天使などに渡したくない。地獄になど連れて行かせない。そう頭の中で繰り返しながら堕天使の言葉を待つと、 こう返ってきた。

「ふふふ……彼を私の物にしたらどうするのかだと?決まって居るでは無いか。

小さな家を建て、大きな窓と小さなドア、暖炉があって、真っ赤な薔薇と白いパンジー……」

「何となく地獄にそぐわない情景の様な気がするんですが」

「誰が地獄に連れていくと言った?天寿を全うするまで都会から離れた長閑な土地で、羊でも飼いながら過ごすつもりだ」

 乙女の様な夢を語る堕天使に、私はつい、 この堕天使がきちんと地獄で業務をこなせているのかどうかが心配になってしまったが、 カミーユ君を地獄に連れて行く気が無いというのは解った。

しかし、相手がどんな理想を持っていようがカミーユ君を渡すのは許しがたいので、 私は堕天使の腕に回していた腕で腰を抱え、そのまま抱え上げて堕天使を背面に思いっきり落とした。

そのまま一旦二人して地面に倒れた後、すかさず立ち上がり、私は堕天使の首に腕を引っかける。

「目的がどんな物であれ、堕天使に彼は渡せません」

「そうは言っても、お前の力量では私を消し去ることは不可能だ。それはわかるだろう?」

 首を押さえられていて動けないはずの堕天使が薄ら笑いを浮かべ、空に輝く月すらも覆い隠す様な、 暗く、黒い、邪なる空気で私を包む。

その空気に気圧され、背中にじっとりと汗が浮かぶ。

確かにこの堕天使の言う通り、雰囲気だけで気圧されてしまっていて、私の力量では敵わない。

けれども、ここで腕を放してカミーユ君を堕天使の物にさせる訳にはいかなかった。

真っ青な顔をして首を締め上げる私に、苦しがる風も無く堕天使はこう言う。

「だから言っているだろう?無理だと。

もしここでお前が私の首をへし折ったとしても、また次の新月の夜には元通りになって、 彼の脚を治す為に奔走するぞ」

「あ、よろしく願いします」

 堕天使としては脅しのつもりだったのだろうが、 脚が不自由なカミーユ君を治す為に奔走してくれるのならそれに越したことは無い。

堕天使がそう言った直後、私はぱっと首から腕を放し、腰の後ろに手を回す。

すると堕天使がのそりと立ち上がり、怪訝そうな声でこう言った。

「お前、随分と聞き分けが良いな」

「まぁ、私としても彼の脚を治したいのは山々なので、 直す為の方法を合法的に見付けてくれるのなら邪魔はしませんよ?」

 しかし。とその言葉に続けて私は言う。

「脚を治した後、良からぬ事をしようとするのなら、その時はこの身を投げ打ってでもあなたを消します」

そう言ってロザリオを掲げる私に、堕天使は薄笑いを浮かべ、その時が楽しみだと、そう言って闇へと姿を消した。

 

 それから一週間後の安息日。ミサの後にカミーユ君達三兄弟に声を掛け、 良く虫に食われるという一番下の弟のアルフォンス君には虫除けのおまじないを、 アルフォンス君と一緒に居る時に良く虫に食われるというカミーユ君には悪い虫除けのおまじないを掛け、 二人に先に教会から出て貰い、ギュスターヴ君に黒い薔薇の件について話をした。

あれは堕天使の仕業であったけれども、暫くはカミーユ君に悪さをすることは無いだろうと言うことと、 悪さをする様になる兆候が見えたら、すぐに対応すると言うことを伝える。

ギュスターヴ君はそれでも不安が拭えない様子で俯いていたので、 それを予測して用意して置いたお守り用のメダイを兄弟三人分渡して置いたのだった。

 

†next?†