第六章 学び

 銀杏の葉が色づいてきたこの頃。

私が管理している教会にいつもお祈りに来ている車椅子のお針子、カミーユ君に勉強を教える事が度々有る。

脚が自由に動いていて、仕立て屋をしていた頃は安息日も休まず、ずっと仕事をしていた彼。

歩けなくなってから余程兄弟に心配されたのだろう、車椅子に乗る様になってからは、 仕事が無い時以外に安息日もちゃんと休む様になった様だ。

 安息日と、受けた仕事を全て片付け次の依頼を受けるまでの間の休日、 彼はお祈り以外にも熱心にこの教会に通う様になった。

何故かというと、カミーユ君が物語を書く為に勉強をしたいと言っていたので、それを教える為だ。

 今日もカミーユ君は、弟のギュスターヴ君に車椅子を押されて教会を訪れた。

沢山発注された刺繍のハンカチの依頼を片付けたばかりで、今日は仕事が無いのだという。

「それじゃあ兄貴、俺これで帰るけど、帰り迎えに来た方が良いか?」

「ん~、どれくらいで帰るかわからないから、帰りは自力で帰るよ。ありがとう」

 そう目の前の兄弟は話をして。弟のギュスターヴ君が丁寧に去り際の挨拶を残して教会の門を抜けていった後、 私は図書館で貸し出した本を膝の上に載せたカミーユ君を、教会の敷地内にある小さな図書館へと押して行った。

 

 明かり取りの窓は付いているけれども、本を傷めない様に薄暗くなっている図書館の中で、 机に向かい、カミーユ君と一緒に本を開く。

あらかじめ本を読んでおいて貰った上で、わからなかった所を私が説明するのだけれど、 カミーユ君は私の話を熱心に聞いてくれるので、教える側の私にも思わず熱が入る。

 真剣な顔をして本を見ながら私の話を聞くカミーユ君に、ふとこう訊ねた。

「カミーユ君、お勉強は楽しいですか?」

 すると、彼は表情を崩し、笑顔になって答える。

「はい、楽しいです。知らなかった事を知られるし、神父様の説明を聴いていると、何だか安心します」

「そうですか、良かったです」

 カミーユ君の笑顔を見て、つい私も顔が緩んでしまったけれども、すぐに気を引き締め直して説明の続きを始める。

それから暫く、日が少し傾くまで図書館で勉強を教えていた。

 

 なかなかに長い時間勉強を教えていた気がするので、帰る前に少し休憩していってはどうかと、 カミーユ君を教会に有る小さな応接間に招待した。

カミーユ君はいつも熱心に、長い時間勉強をしているので、 いつもこの応接間でビスケットなどのお菓子を振る舞って休憩してもらってから帰って貰っている。

 今日はブリオッシュをカミーユ君と私の分、二つを用意した。

おやつを食べながら二人で雑談する事暫く、カミーユ君が遠慮がちに私にこう言った。

「あの、神父様にお伺いしたい事が有るのですが、良いですか?」

「はい。私にわかる事でしたらお答えしますよ」

 震える両手でブリオッシュを持ち、ほのかに頬を染めてカミーユ君が尋ねてきたのはこう言う事だった。

「恋とは、どんな物なのですか?」

 思わず胸が抉られる様な気がした。

カミーユ君は私の気持ちに気付いているのだろうか。わかっていて、この様な事を訊いてきたのだろうか。

自分の胸が高鳴っているのと、顔が熱くなってくるのを感じる。

「あ……やっぱり、神父様は聖職者ですから、恋とかそう言う物とは無縁ですよね」

 そう言って俯いてしまったカミーユ君に、私は少しずつ、言葉を掛ける。

「恋とは、苦しい物です。

思い人の事を考えると、心が弾んだかと思えば胸が締め付けられたり。

気持ちを伝えると決めても、飲み込むと決めても、その人の前に行くとただでは居られないのです」

 それを聞いたカミーユ君は、予想外の言葉だったのか眉尻を下げてこう訊ねてきた。

「辛い物なのですか?」

 私は彼の目をじっと見つめて返す。

「辛い物です。

しかしそれ以上に、素晴らしい物です」

 このまま、カミーユ君に私の気持ちを伝えたい。そう思ったけれども、私は聖職者だ。 その様な事は許されない。

 私がそんな事を考えている事も知らず、カミーユ君は微笑んで言う。

「そうなのですか。お話を聞かせて下さってありがとうございます。

神父様は恋をした事が有るのですか?それとも、本で読んだのですか?」

「えっと……その……」

 結構ズバズバと抉ってくるなと思いつつ、もう少し雑談をして、カミーユ君は家路に就いた。

 

 その日の晩、私はいつもの様に日記を書いていた。

今日はカミーユ君にどんな事を教えたのかとか、今後勉強を教える為にどの様な本を読んで置いた方が良いのか、 その様な事や、雑談をして居てどんな気持ちだったかを書き留めていく。

 今日は随分とカミーユ君と話せた気がするので、いつもよりも長めの日記になっている。

文章を一区切り書いた辺りで、背後に気配を感じた。

「ハァイ。タリエシン君、ポルノ小説書くの辞めたの?」

 その声に振り返ると、優雅な翼を背中に背負った、天使様がいらっしゃった。

この天使様は過去にも何度かお目に掛かった事が有る方なのだが、やはり突然顕れると驚いてしまう。

すぐさまに椅子から降り、跪いて指を組み、天使様に挨拶をする。

それから、最近ポルノ小説を書いていない理由を話す。

カミーユ君が余りにも熱心に勉強をする物だから、自分も教えられる様になるので精一杯で、 邪な事を考えている余裕が無くなったという内容だ。

 それに対して天使様は、それならそれで構わないのだけれど。と言い、それから話題を変えた。

何かと思いきや、だいぶ前に私がカミーユ君の右目を覗き込んだ時に姿を見せた、得体の知れない物の話だった。

天使様曰く、独自調査をした結果、あの得体の知れない物は私ではどうする事も出来ないほどの物なので、 決して触れる事の無いようにとの事。

 あの禍々しさを感じる何者か。あれをカミーユ君の中に巣くわせている居る事に抵抗はあるが、 天使様が触れるなと言うのなら、触れない方が良いのだろう。

私も、忘れがちだけれども退魔師な訳で、手に負えない物に手を出す事が、 自分だけでは無く周りの者も命の危険に晒すと言う結果に繋がるのはわかる。

 重々しく、承知しました。と言うと、また誰も居なかったはずの場所から、天使様とは違う声が飛んでくる。

「ふふふ……お前は余計な事を考えず、あのお針子の望みを叶える事だけを考えていれば良いんだよ」

 その声を聞いて、私は反射的に机の上に置いてあったペンをその方向に投げる。

「天使様がいらしている所に、堕天使が良くもまぁ堂々と現れるものですね」

 黒い服に引っかかったペンを手で掴み、机の上に放りながら堕天使が答える。

「失礼な。私もあのわけのわからない物の調査に付き合わされたんだ。一言言う権利くらいは認めてほしいものだね」

「え?どういう事です?」

 天使様と敵対しているはずの堕天使が、何故そんな事を。

疑問に思い天使様の方に振り返ると、天使様はにこにことしながら説明してくれた。

「ああ、その子はうちの天使長のお兄さんなんだよ。

折角だから、そのつてを使って手伝って貰ったんだよね」

「は、はぁ」

 いくら天使長様の兄と言っても地獄に落ちた……いや、天使様の考える事に文句を言ってはいけない。 きっと神も承知の上で、堕天使に協力を求めたのだろう。だからきっと問題は無いはずだ。

 私が一生懸命自分にそう言い聞かせていると、天使様も堕天使も、用事が済んだようで、それじゃあまた。 と言い残して消えた。

……また来るつもりなのか……

 

 それからだいぶ経って。

偶に堕天使がカミーユ君の元に顕れたり、天使様が私の日記を気にして顕れるなどゴタゴタは有ったけれども、 カミーユ君は順調に仕事をこなし、私は教会の手入れをし、二人で図書館で勉強をして、そんな日々を過ごした。

 カミーユ君が車椅子に座るようになってから数年経ち、ある日の事、嬉しそうに私に言った。

「神父様のおかげで、頼まれていた物語が完成したんです。ありがとうございました」

「そうですか、おめでとう。お疲れ様でした」

 カミーユ君が私の下で勉強をしていたのは、完成したと言っている物語を書く為だったわけで、 私はもう、彼に勉強を教える事は無いのかと思うと、胸が苦しくなる。

しかし、元々私とカミーユ君は神父と信徒。それ以上の物では無い物の筈だ。 そう強く念じ、自分の気持ちを抑えつけようとする。

 すると、カミーユ君がもじもじしながら、私にこう言った。

「それで、物語は書き終わったのですけど、これからも僕にお勉強を教えてくれますか?」

 戸惑うような、恥じらうような視線を受けて、頬が熱くなる。

勿論、あなたが教えて欲しいというのなら教えますよ。とそう答えて。

 本当に、ああ本当に、こんな日が何時までも何時までも続きますように。

私はそっと、心の中で神に祈った。

 

†fin.†