第三章 旅路に発つ

 ウィスタリアが修道院に入って数年。はじめはあれほど怯えていた彼も三年間の内にすっかり打ち解け、修道士としての勤めを日々こなしていた。
 この修道院でウィスタリアが担っている役割は、ミサや儀式の時の音楽隊だ。元々オペラ歌手であったということもあり、朗々とした歌声は神に捧げるのに相応しいと、司教様や司祭様だけでなく、他の修道士からも評判だった。
 毎日の歌と楽器演奏の練習の後、ウィスタリアは必ず、ルカの仕事場へと顔を出す。ルカの役目は、様々な石の記録だ。それは宝石であったり、ただの塊であったり、様々だけれども、ただひたすらに石の姿を絵の具で紙の上に写し取り、名前のわかる物は名前を添えて、わからない物は一定の法則で振っている番号を添えていた。
 だいぶ前にルカから聞いた。石の中には、人間にとって猛毒になるものもあるのだと。それを聞いたとき、石を食べる人などいるのだろうかと不思議に思ったけれども、食器に使われていたり、ふとした拍子に口に入れてしまったりと、そう言う事も少なくないらしい。
 今日もルカの仕事を邪魔にならないように眺めているけれども、ウィスタリアには石のことを覚えるのは難しいことのように感じられた。
 聖堂の鐘が鳴る。夕べの祈りの時間だ。
「ウィスタリア、いるのでしょう?
一緒に聖堂まで参りましょう」
 椅子から立ち上がったルカが振り向きざまにそう言うと、ウィスタリアは人懐っこい笑みを浮かべて返事をする。
「うん。一緒に行きましょう」
 ルカが部屋を出て、ウィスタリアはその後を付いて、聖堂へ向かう。ウィスタリアにとってこの修道院の聖堂は、もうこわいものではないのだ。

 平穏な日々を過ごすある日のこと、ウィスタリアはルカと共に司教様の元へと呼び出された。一体何事かと、ふたり並んで歩く廊下で時折視線を送り合う。
 行った先には重々しい樫の木でできた扉。目立った装飾はないけれども、しっかりと磨かれて艶の出ているこの扉の向こうには、司教様の部屋がある。
 固唾を呑んで扉を開け、挨拶をする。
「ただいま参りました」
「お待たせしました」
 ルカとウィスタリアが頭を垂れると、司教様は面を上げるように言い、早速用件をふたりに告げる。
「今回君たちを呼んだのは、他でもない。
実は、君たちにチャイナまで行って賢者の石に相当するものを探してきて欲しいんだ」
「賢者の石でございますか?」
 司教様の言葉に、ルカは怪訝そうな顔をする。一方のウィスタリアは、賢者の石というのがなんなのか、いまいちわからない。
 怪訝な顔を向けられたことを気にしているのか、司教様は気弱そうな表情で話を続ける。
「そう。正しくは相当するものなのだけれども」
「相当するもの、とおっしゃいましても、賢者の石のどの部分に相当するものでしょうか。
黄金を作れるというところでしょうか。
不老不死を得られるところでしょうか。
万病を癒やすところでしょうか。
それとも、成分でしょうか」
 この賢者の石というものをどういった形でかはわからないけれども余程気にしているのだなというルカの様子に、ウィスタリアだけでなく司教様もたじたじとしてしまっている。
 司教様は言いづらそうに答える。
「あの、不老不死のところだね」
 その言葉に、ルカが怒るのではないかとウィスタリアは思ったけれども、以外にも納得した顔をしている。どうやらどこに主眼を置いているのかがわからないのが気にかかっていたようだ。
「かしこまりました。
ですが、なぜ私とウィスタリアのふたりに?」
 それはウィスタリアも不思議に思っていたことだ。
 チャイナまで行くということであれば、音楽院時代にあちこちへと訪れていたことのあるウィスタリアが旅慣れしていると判断するのは当然のことだ。けれども、ルカはなぜなだろう。単純に、賢者の石に詳しいからだろうか。
 ルカが疑問を投げかけただけでなく、ウィスタリアも不思議そうにしているのも鑑みてか、司教様はこう説明した。なんのことはない、ウィスタリアに関しては旅慣れしているだろうというのと、ルカに関してはそのウィスタリアが一番懐いているので、ひとりで行かせるよりはふたりの方が安全だと考えたときに真っ先に候補に挙がったからだという。
 その説明に、ルカもすっかり納得した様で、ふたりは司教様からのその仕事を受けることとなった。
 ふと、ウィスタリアが訊ねる。
「ところで、なんで不老不死の、えっと、そういう物が必要なんですか?」
 その問いに、司教様はおっとりと答える。
「実はね、この街を取り仕切っている貴族からの依頼なのだよ」
「そうなんですね」
 貴族はなぜ、不老不死などというよくわからない物が欲しいのだろう。それが不思議だったけれども、とにもかくにも、これから旅の準備を始めると言うことになった。
 修道院の方で旅に必要な物を揃えるために、あらかじめ用意したリストに載っている物以外に要望は有るかと司教様が訊ねる。ルカは特に要望は無さそうだけれども、ざっとリストを見たウィスタリアがこう言った。
「これ以外に、楽譜とフィドルが欲しいです」
 その言葉に、ルカはきょとんとしているけれども、司教様はなぜ必要なのか察した様子。
「なるほど。それは構わないよ。
ただ、古いものになるし、手入れも自分でして貰う事になるけれど」
「大丈夫です。手入れは慣れてます」
「それじゃあ荷物に入れておこうか」
 ふたりのやりとりを、今度はルカが不思議そうに見つめている。それに気づいたウィスタリアは、フィドルと楽譜が必要な理由を簡単に説明した。

 チャイナ行きの命を受けてからしばらく。ようやく荷物とお金の準備ができたふたりは修道院から旅立った。
 街から出て街道を歩いていると、ルカがなにやら周りをきょろきょろと見回している。
「どうしたの? なんか不審なものでもあります?」
 ウィスタリアが訊ねると、ルカは驚いた声を上げてからはにかんで答える。
「えっと、実は私、子供の頃に修道院に入ったきり、あまり外には出ていなかったので周りの風景がどこを見ても珍しくて」
「なるほどなー」
 確かに言われてみると、ウィスタリアも修道院に入ってからというもの、街からどころか修道院そのものから外へ出た記憶がない。そうなると、子供の頃から修道院にいたというルカは、外の世界などほとんど知らないも同然なのだろう。
 ルカに歩調を合わせて、ゆっくりと歩を進める。そうしている内にひとつめの宿場町の気配を感じた。この旅のはじまりは、ゆっくりだけれども順調だった。

 ふたりが旅を初めてしばらく。いくつもの宿場町を訪れ、暇を見て広場でウィスタリアがフィドルを演奏していた。
 足下に開いて置かれたフィドルのケースには、時折硬貨が投げ込まれる。あらかじめ用意した資金だけでは足りなくなると言う事も考え、こうやって路銀を稼ぐ手段としてフィドルを所望したのだ。
 演奏するウィスタリアの隣で、ルカはうっとりと旋律を聴いている。
 音楽と共に旅路は続いて、そうしているうちに人里がまばらになっていくのだった。

 

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