第一章 ミルクホールに来る兄弟

 良く晴れた日の昼間、今日も帝都は平和な時間が流れていた。
 そんななにもない日だからなのか、帝都の一角にあるとあるミルクホールにひとりの軍人が訪れていた。特に何か見回りというわけでもなく、丸いテーブルに着いて帽子を置き、大きな体を縮こめ、白く短い髪を時々揺らしながらカステラで羊羹を挟んだものをぼんやりと囓っている。
 カステラを半分ほど食べて皿の上に置き、傍らに置かれたカップを口に付けてミルクを飲む。一息ついた様子の彼に、このミルクホールで馴染みとなっている給仕の娘が話し掛けた。
「潔さん、お兄さんの姿が無いみたいですけど、またどこかに行ってるんですか?」
 給仕の言葉に、潔と呼ばれた軍人は口をぐっと結んでからしょんぼりとした様子でこう答えた。
「兄さんは、取引でまた銚子に行っていて、しばらく空けてるんです」
「あらまぁ。潔さんも連れて行ってもらえばいいのに」
「兄弟揃って帝都を空けるわけにはいかないって兄さんが……」
 話せば話すほど気落ちした様子を見せる潔に、給仕が困ったように笑う。
「そんな顔しないでくださいまし。
あっ、そうだ。よかったらそこのピアノで何か一曲お願いできませんか?」
 てのひらを上に向けて彼女が指したのは、店内の奥にある黒いピアノ。時々演奏家の卵を呼んで、音楽鑑賞会を開くためにミルクホールの店主が輸入した物だ。
 彼女のお願いを聞いて、潔は照れたように笑う。
「舞子さんのお願いなら是非。
では、お借りしますね」
 そう言って、潔はカステラをひとくち囓ってからピアノの方へと向かう。蓋と鍵盤を開け、専用の椅子は潔には些か低いけれども、それに腰掛けて鍵盤をいくつか鳴らす。少し考える素振りを見せてから、両手の指でゆっくりと鍵盤を叩きはじめた。
 はじめはゆっくりと、流れるような高音の旋律とそれに添えられる低音。静かで穏やかな流れを作り、それは次第に細かで華やかな拍子を刻み出す。
 リクエストをした舞子は、その曲を聴いて、ほうっと溜息をつき呟く。
「聞き慣れない曲だけど、なんていう曲だろうねぇ」
「リストの練習曲三番」
 突然かけられた声に舞子が振り向くと、そこには潔ほどではないけれど背が高く、頭に帽子を乗せた軍人が立っていた。
 その姿を見て、舞子はにっこりと微笑む。
「治さんいらっしゃい」
 お盆を抱えている彼女に、治と呼ばれた軍人が帽子を脱ぐ。下からはきっちりと編み込まれ、結い上げられた赤い髪が出てきた。
「潔が使ってる席はここかい?」
 治がそう訊ねると、舞子は椅子を一脚引いて答える。
「そうです。よくわかりましたね」
「まぁ、あいつがいつも食べてるのが食べかけて置いてあるからさ」
 勧められた椅子に腰掛けた治は、舞子にパンとミルク、いつも通りの注文をしてから店の奥のピアノを見る。自分の弟がこのミルクホールで演奏を頼まれるのは珍しいことではない。正確に言うと、寂しがっている所に気が紛れるように演奏をさせて貰えているというのが実情のようなのだけれども、気を遣われているというのに潔が気づいていようがいなかろうが、店主も潔の演奏には毎回満足しているようなので、幸せな取引だろう。
 テーブルの上の灰皿を自分の方へ引き寄せて腰に付けた小さな鞄に手を入れる。中から出したのは煙管と燐寸と、煙管に詰め込む刻み煙草だ。刻み煙草の箱を開け、慣れた手つきで乾いた葉をつまんで丸める。それを煙管の雁首に詰め込み、口の端で煙管を咥えて燐寸で火を付ける。火を消した燐寸を灰皿に入れ、ゆっくりと煙をふかす。目だけで周囲を見回して、人のいない所へ向かって煙を吹き出した。そうしているうちに舞子がミルクとパンをテーブルの上に置き、すぐさまに他の客の注文を取りに行くのを見送った。
 ゆっくりと煙草を吸っていると、演奏の終わった潔が嬉しそうな顔をして席に戻ってきた。
「兄さん、お帰りなさい」
 そう言って潔が椅子に座ると、治は潔から顔を背けて煙を吐く。ミルクをひとくち飲んで潔に言う。
「あいかわらず練習させる気のない練習曲だな」
「あれは練習させる気が無いんじゃありません、他人に弾かせる気が無いんです」
「ラ・カンパネラの方がまだ配慮あるよな」
「ラ・カンパネラはまぁ、配慮させられたというか」
 ふたりでゆっくりと話して、ミルクや皿の上の物を食べる。ふと、治が煙管を口から離し、灰皿の上でひっくり返した。灰皿のそばに左手の人差し指を添えてそこを煙管の羅宇で軽く叩く。雁首から灰になった煙草が落ちた。
 カップの中も、皿の上も空になった。治が給仕を呼び、潔の分も含めて会計を済ませる。それから立ち上がり、潔に声を掛けた。
「さて、これから浅草に行くぞ」
 それを聞いて、潔の表情がすこし引き締まる。けれどもその様子を見掛けた舞子が、くすくすと笑ってふたりに言った。
「あらあらおふたりとも。また昼間から遊び歩いて」
 その言葉に治はにっと笑って返す。
「僕達の仕事は夜だからね」
「ふふふ。いつも夜の見回りご苦労様」
 帽子を被った軍人ふたりは、それぞれ手を振ったり、軽く礼をしてからミルクホールを後にする。
「兄さん、いつも通りお菓子屋さんに寄っていきますか?」
「そうだな。手土産はあった方が良い」
 話をしながらふたりはミルクホールから離れた場所にある菓子屋へと向かった。

 

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