第二章 化粧師

 良く晴れた日のまだ陽も高い頃、遊郭の一角で夜に備えて遊女達が身支度を始めていた。
 素肌のままではいまいちぱっとしないように見える遊女達に化粧を施しているのは、ひとりの小柄な男。普通遊女達は自分で化粧をするものだけれども、入りたての娘に化粧を教えたり、今日は得意客が来るからびしっとしたいという娘に化粧を施したりするのがこの男の役割だ。
 慣れた遊女達は男の化粧の腕に何も疑問は持たない。鏡の前に並んだ三人ほどの娘のうち、白粉を塗る順番を待っている二人が話をしている。どうやらまだ輸入はされていないけれども、他の国で使われていると言われている化粧品の話のようだった。
「外国の口紅って、いろんな色があるらしいわね」
「ねー、使ってみたいわぁ」
 それを聞いて、目の前の娘に水溶き白粉を塗っている男がむすっとした表情で言う。
「ばかなことをお言いじゃないよ。
あんなね、風情の欠片もない派手なだけのものじゃあ女をきれいには見せてくれないよ」
 白粉を海綿で叩きながら戒める男に、話していた娘のうち片方が笑いながら言い返す。
「また桐次さんはそんなこと言って。
そんなこと言っても、いざ手元に口紅が来たら、上手に使ってくれるんでしょう?」
 桐次と呼ばれた化粧師は、いましがた言い返してきた娘に向き直り、刷毛で白粉を塗り始める。
「さあどうだろうねぇ。私は外国の化粧品は、好かないけどね」
 明らかに不機嫌そうな桐次を気にせずに、白粉を塗り終わった娘が鏡をまじまじとみながら口を開く。
「なんか外国には真っ白でない、肉色の白粉もあるらしいじゃない。あれってどうなのかしらね」
 外国の化粧品への興味が尽きないといった様子の娘達に、大きな溜息をついてから桐次が言い聞かせる。
「そんなね、変な物なんか気にしないの。
女をきれいに見せてくれるのは白い肌だっていうのは、あなた方が一番知ってるだろう?」
 それを聞いて娘達はくすくすと笑う。それもそうだ。桐次に任せておけば間違いはない。口々にそう言って、刷毛と筆を持つ桐次にされるままになる。白粉で白く塗られ、目元と唇に鮮やかな紅を引かれた娘達は、先程の素朴な表情からは想像も付かない艶やかな遊女へと変わっていた。
 遊女達への化粧が終わり桐次が化粧部屋を出ると、小間使いに声を掛けられた。外に桐次の知り合いが来ているというのだ。
 それを聞いた桐次は、はぁなるほど。と呟いて裏口へと行く。そこには背が高く、それぞれに赤い髪と白い髪を持った馴染みの軍人がふたり立っていた。
「これはこれは治さんに潔さん。ようおいでくださいました」
 にっこりと笑ってそう声を掛けると、赤い髪の軍人、治が風呂敷で包まれた箱を桐次に差し出す。
「またお邪魔させて貰うよ。これはちょっとした手土産」
 箱を受け取り、桐次は裏口からふたりを中へと通す。
「それじゃあ、いつもの部屋へと行きますか」
 案内したのは、遊女のいる部屋ではなく桐次がいつも控え室として使っているこぢんまりとした部屋だ。中には小さい棚と丸いちゃぶ台とそれに添えられた座布団がひとつ、部屋の端に積まれた座布団が何枚かが置かれている。
 桐次は店の奥に大きめの声でお茶を用意してくれと声を掛けてから、控え室に入る。積んであった座布団を二枚ちゃぶ台の前に敷き、それを治と潔に勧めた。
「開けていいですかね?」
 手に持っていた箱をちゃぶ台の上に乗せて桐次がそう訊ねると、帽子を脱いで乱れた白い髪を整えながら、潔が嬉しそうに答える。
「はい、どうぞ開けて召し上がってください」
 返事を貰い、桐次は箱を覆う風呂敷をほどき、中の箱を開ける。中にはふっくらとした饅頭がいっぱいに入っていた。
「おやまぁ。やっぱり私ひとりで食べるのは大変ですね。みなさんで分けましょうか」
 箱をちゃぶ台の上に置くと、外から声がかかる。どうやらお茶の用意が出来たようだった。
 立ち上がってお茶を受け取りに行き、お盆の上に乗った湯飲みをちゃぶ台の上に乗せる。陶器製の大きな急須から湯飲みへとお茶を注ぐと、ほんのりと湯気が立った。
 お茶を治と潔の前に置き、自分の手元にもひとつ置く。それからみなでお茶と饅頭に手を着けはじめた。
「桐次、最近はどうだい?」
 治の問いに、桐次は深い溜息をついて口を開く。
「いやぁね、最近うちの娘達が外国の化粧品に興味津々でね。まったくいやになってしまいますよ」
「へぇ、外国の。それは一体どんなものなんだ?」
「なんだか油っぽい口紅だとか、肉色の白粉だとか、そんなへんなものですよ。
そんなものをうちの店で入れるようになって使わなきゃいけないことになったらと思うとぞっとしませんよ」
 不満たらたらの桐次に、治が笑って返す。
「まぁ、僕は外国の化粧品について詳しくはないけど、そうだね。水溶き白粉と紅でなくなったら困っちまうね」
「そうでしょう、そうでしょう」
 ふたりで笑い合って、それから桐次は真面目な顔をしてこう訊ねた。
「で、おふたかたがいらしたと言うことは、今晩私をお呼びで?」
 それに対して、治がお茶をひとくち飲んで返す。
「ああ、いつもの所に来て欲しい。報酬はいつもの通りだ」
「はい、かしこまりました。このあと準備して向かわせていただきます」
 ふたりでやりとりをして、ふと桐次がずっと静かな潔に目をやる。すると、口に饅頭を頬張っていて、箱の中身もだいぶ減っていた。
 思わす桐次が笑みを漏らす。
「おやおや。これは随分と饅頭がこわいですね」
 治からも呆れたような視線を送られ、潔は顔を真っ赤にしてお茶を口に含む。これはもういつもの事だなと、くすくすと笑いながら桐次が言う。
「さて、ここらで熱いお茶がこわいんじゃあないですかね?」
 すると、治が腰に付けていた鞄から煙管と燐寸と刻み煙草を取り出して言う。
「僕も熱いお茶がこわいねぇ」
「はいはい、かしこまりました」
 桐次はまた立ち上がって、入り口から店の奥へと声を掛ける。それからまた座る前に、棚から金属製の灰皿を出してちゃぶ台に置いた。
 治が刻み煙草を煙管の雁首に詰めてるのを見ながら、桐次は言う。
「おや、刻み煙草がなくならないようにお気をつけて」
「大丈夫、少なくとも今晩分はあるよ」
 それから、饅頭のはいった箱をちらちらと見ている潔に声を掛ける。
「潔さん、食べたかったらもっと食べて良いですよ。
まぁ、私もひとついただきますがね」
 饅頭に手を伸ばしてひとくち囓ると、甘い香りが口の中に広がった。

 

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