墨を流したような、陰鬱な雰囲気の夜道を歩き、治達は浅草寺に辿り着く。目の前の大きな鳥居を見上げるけれども、ふたりはそこをくぐらない。そのまま右手の道へと歩いて行き、浅草寺の境内の周りをぐるりとまわる。 時折、喧騒が聞こえる。けれども音の元にあるだろう光は見えず、ただ水銀灯がゆらゆらと薄気味悪く光っているだけだった。こういった不可思議な街並みには、治も潔も慣れきっていた。
「どこにいると思う?」
少し後ろを歩いている潔に治がそう訊ねると、潔はすっと目を細めて道の先を見る。それから、小さく何かを呟いた後にこう返してきた。
「また、二天門の前あたりですね」
「わかった」
腰に下げた刀に手を掛け、二天門を目指して歩く。次第に闇が濃くなり、空で輝いているはずの星も見えなくなった。
二天門の近くに着き、治が周囲を見回す。すると、二天門の前に大きく蠢く闇の塊があった。ふと一陣の風が吹く。生臭い臭いがした。
黒い物の存在を確認した潔が、持っていた木の鞄を地面に置き、コルネットを取り出そうとする。一方の治は、ポケットから取り出したスキットルの蓋を開け、ひとくち含んでまたポケットに戻す。素早くその所作をしてから、腰に差していた刀を抜いて大きな闇の塊に斬りかかった。かろうじて届く水銀灯の光すら照り返さない、錆びた刀。それに斬りつけられた塊は、聞き取ることのできない咆吼を上げて治に覆い被さろうとする。それを後ろに跳び、刀を刺し、その刀を軸に回りと、治は塊の反撃を避けつつ何度も斬りつける。
しかし、次第に治が劣勢になっていく。そんな中、コルネットの用意をしていた潔もスキットルからひとくち酒を飲んで、コルネットに向かって二本の指で九字を切る。それから、塊に向かってコルネットを吹き音を叩き付けた。
まるで兵隊達が行軍しているかのような勇ましい旋律。それを浴びせられた黒い塊は、収縮するように蠢き生臭い臭いを撒き散らす。
西洋の音は固くて強い。潔の吹くコルネットを見る度に治はそう思う。コルネットの音に身を震わせる黒い塊から距離を取った治は、腰に付けた鞄から煙管と燐寸、刻み煙草とざらりとした物が入った巾着袋を取り出す。刻み煙草を丸めながら、巾着袋に入っている黄色く小粒なコパルを仕込み、煙管に詰め込む。それから、煙管に向かって九字を切ってから口の端に咥え、燐寸で火を付けた。
左手で煙管の羅宇を持ち、一服ふかして口の中に煙を溜める。それから、蠢く黒い物に向かって煙を吹きかけた。
煙はほのかに光を放ちながら。黒い塊に纏わり付く。細く細く黒い塊を取り囲んだ煙は、一瞬強く輝いてから、黒い塊をぎゅうと縛り付けた。
蠢く塊がまた咆吼を上げる。それをかき消すように、潔がコルネットの音をぶつける。見えない攻防が繰り広げられているうちに、治はもう一服煙管をふかす。また同じように口の中に煙を溜め、今度は右手に持っていた刀に煙を吹きかける。すると、赤く錆びている刀を煙が包み込み、煙が触れた所から錆が消えていった。
錆の消えた刀が、水銀灯の光を鋭く照り返す。治は煙管をまた口の端に咥え、両手で刀を構えて蠢く塊に駆け寄る。黒い塊はコルネットの音で相当参ったのか、随分と小さく縮こまっている。そこに、地を擦るように刀の先を下げ、そのまま黒い塊の上を飛び越え切れ目を入れる。飛び越えた後に、今度は刀を上段に構え直し、思い切り振り下ろして黒い塊を一刀両断にした。
黒い塊を縛り付けていた煙が、ふたつに分かれたものを覆い尽くす。それはすぐさまに小さく縮み、清らかで甘い香りを放って消え、先程の悪臭を撒き散らしていた黒い塊は、真っ二つになっている赤と白の筋の入った椿の花へと姿を変えていた。
コルネットの音が止む。静かになった闇の中で、椿を見た治は刀を鞘にしまい、煙管をもう一服ふかして煙を椿の花に吹きかける。甘い香りの煙に包まれた椿は、崩れるようにして地面と同化し、消え去った。
それと同時に、周囲の闇が薄くなった。夜も更けているので人通りその物はないけれども、空に輝く星が姿を現しただけでも、随分と明るくなったような気がした。
「さて、帰るよ潔」
「はい」
すでにコルネットを片付け終わった潔に治は声を掛ける。それから、雁首の中に灰だけが残った煙管をひっくり返し、左手の人差し指で叩いて灰を落とす。その灰を踏んでから、夜道を歩き始めた。
どこからかざわめきが聞こえる。周りを見ると、遅くまでやっているバーから光が漏れ、そこで市民達が楽しく飲んで騒いでいるのだろうというのがわかる。
「まぁ、平和なのに超したことはないさ」
そう言って、治はポケットからスキットルを取り出して中に入った酒を飲む。潔も同じようにしてした。
これから軍の施設まで帰るのに、どれくらいの人とすれ違うだろうか。できれば、自分たちの姿が見られないようにしたいのだけれどと、そんな話を治と潔で笑いながらする。魔を祓うためのまじないとして白塗りの化粧をしているけれども、これを見られていらない誤解を招くと何かと面倒なのだ。
けれども、この化粧の意味を市民達が知らないなら知らない方が良い。厄介なあやかしなどもう存在しない、平和な世を過ごせているのだと、そう思っているに超したことはないのだ。