第五章 耳と鼻

 その日の晩、ミカエルたちはあの狼をおびき寄せるために森へと入り込んでいた。
 あの狼は一匹だけではないだろう。そう推測したミカエルの指示で、森に潜むあの狼をまずは駆除しようということになったのだ。
 おびき寄せる餌は、朝仕留めた狼の内臓のうち、ウィスタリアとルカが食べられないと判断した部位だ。
 そもそも犬の肉など食べられるも食べられないもないだろう。とミカエルは思ったけれども、狼をおびき寄せる餌がなくならなくてとりあえず一安心だ。
 よどんだ血のにおいが夜風に乗る。すると、青い木の葉のざわめきに混じってあの狼の遠吠えが聞こえてきた。
 狼の声と足音が徐々に近づいている。トマスが猟銃を構える。ルカが籠いっぱいに詰めた石を取り出して握る。その後ろで、ミカエルとジジは万が一狼がトマスとルカの攻撃を突破して飛びかかってきたときに備えて農具を握っている。ウィスタリアは斧を握り片膝をついてしゃがみ、目を閉じて耳を澄ませている。
 闇が動く。狼の声が響く。柴をゆらす音が聞こえる。
 ウィスタリアが鋭く声を出す。
「一時の方向、三時の方向、十時の方向に一匹ずつ」
 ルカがすかさず一時の方向と三時の方向へ鋭く投石する。狼の悲鳴が聞こえる。トマスも十時の方向を銃撃する。なにかが倒れる音がした。
 同胞が狩られたことに気づいたのだろう。狼の咆哮が大きくなる。柴をゆらす音も大きく、せわしなくなる。ウィスタリアが次々と方向指示を出すと、ルカとトマスが狼を仕留めていく。
 どれだけ狼を仕留めただろうか。少しずつ数は減っているけれど、狼の咆哮と柴が揺れる音はまだ絶えない。
「くそっ、荒ぶる柴率すこぶる高めだな」
 しぶとい狼の襲来に神経が高ぶっているのか、ウィスタリアがそう吐き捨てる。
 耳を頼りにウィスタリアが出していく指示にルカとトマスが従うことしばらく、ようやく狼の遠吠えと柴の音が聞こえなくなった。
 これで全部仕留めたか。ルカとトマスが安心したその瞬間、ウィスタリアが悲鳴じみた声を上げる。
「後ろだ!」
 最後列にいたウィスタリアの後ろから狼の足音が聞こえる。咄嗟にウィスタリアの後ろに回ったジジが鍬で牙を受け止め地面に押さえつける。ミカエルが鍬で狼の頭を殴りつけると、狼は悲鳴を上げて地面に転がる。その隙を見て、ウィスタリアが手に持っていた斧を狼の首に振り下ろした。
 木のざわめきだけが聞こえる。獣の声は消え去った。
「……これで全部だ」
 ウィスタリアが肩で息をしながらつぶやく。
「よし。それじゃあ狼の死骸を集めて処理しよう。
 他の獣が集まってきても困る」
 まだ緊張の解けないミカエルの言葉に、トマスとルカとジジは武器を持ったまま森の柴に分け入り、狼の死骸を引きずってくる。
 森の中から引きずり出された狼の死骸をミカエルが数える。ウィスタリアが指示を出した数と合っているか確認しているのだ。
 結果として、指示出しをした分と数はぴったり合っていた。
 ふと、トマスが不安そうに訊ねる。
「ところで、この狼たちの出所はどうやって調べるのですか?」
 その問いに、ミカエルは肩をすくめて返す。
「森の中から周りから、しらみつぶしに調べるしかないね」
 すると、ジジが突然狼の死骸に顔を埋めた。
「なにをしているんだ!」
 突然のことにおどろいたミカエルがジジの体を狼の死骸から引き離すと、ジジはこう言った。
「こいつらから百合の花の匂いがする」
「……それで?」
 これはなにかの鍵だ。そう思ったミカエルがジジの言葉を促すと、ジジはこう続ける。
「百合の花が群生しているところの近くか、その向こうから来たんだろう。
 そうでもなきゃ、こんな獣に花の匂いはそうそうつかない」
「なるほど。それなら明日、村人たちに百合が群生している場所を訊いてみよう」
 ジジとミカエルのやりとりを聞いて、ウィスタリアがぽかんとした声でつぶやく。
「おれにはそんな匂い、わかんないのに」
 その言葉に、ジジは軽く笑って返す。
「ははは、あんたが耳なら俺は鼻だからな」

 翌日、日が昇って村人たちの農作業が一段落しただろうという頃に、ミカエルはさりげない素振りで村人に声をかける。
「すいません、ちょっと訊きたいことがあるんですけど」
 声をかけられた村人は、訝しげに言葉を返す。
「あんたらまだいたのか。今度はなんだ?」
「いえね、仲間の体調もよくなってきたのでそろそろここを離れようかと思ったんですが、どうしたことか靴が壊れてしまってね。
 靴を直すのに百合の根が欲しいんだ。
 この辺りで百合が群生してるところはないかな?」
 困ったように笑うミカエルの言葉に、村人はめんどくさそうに答える。
「森を北側に抜けたところにあるって噂は聞いたことがある。
 まぁ、百合を取りに行ってどうなっても知らないがね」
「なるほどね。ありがとう」
 軽く礼を言ってミカエルはそそくさと借家に戻る。その道中、村の中は相変わらず陰鬱で、爽やかな夏の光など届いていないかのようだった。
 村人たちはまだ、これからこの村を脅かすバケモノが駆除されるということを知らないのだ。

 

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