オペラの公演期間が始まり、昼間は練習、夜は公演と忙しい日々。そんなある日の昼間、 ドラゴミールは一緒に舞台に立っている、バリトン歌手に声を掛けられた。彼はドラゴミールよりも頭一つ分大きい長身で、 良く通る、地を振るわせるような低音の持ち主で、ドラゴミールの憧れだった。彼の名はウィスタリアという。
「ドラゴミール、少しいい?」
「ん? なに? 午後の練習のこと?」
一緒に練習をして歌えるのが嬉しくてたまらないといった様子のドラゴミールに、 ウィスタリアは一通の手紙を持ってこう言った。
「実は、今日の公演の前にアヴェントゥリーナ様のお屋敷にお呼ばれしてるんだけど、 もし良いって言うようだったらドラゴミールも一緒にどうぞってあってさ」
アヴェントゥリーナというのは、この街に住む中流貴族で、オペラだけで無く読書や刺繍、 編み物、様々なうつくしいものに興味を持ち嗜んでいる婦人だ。その婦人の息子が、 いたくウィスタリアの歌を気に入っていて、ウィスタリアはこうやってたまに屋敷に呼ばれている。
ドラゴミールはと言うと、実はウィスタリアのことを抜きにしても、 アヴェントゥリーナとその息子と仲が良い。アヴェントゥリーナの息子はジュエリー職人だ。 何度か舞台で使うアクセサリー小物の制作を依頼していて、例によって興味を持ったドラゴミールが色々と話を聞く物だから、 向こうからも興味を持たれて親しくなったのだ。
「どうする? 一緒に行く?」
嬉しそうにそう訊ねてくるウィスタリアに、ドラゴミールは元気よく答える。
「行く行くー! でも、手ぶらで行くのもなんだよな。毎回毎回なんかご馳走になっちゃってるし」
「そうだなぁ、でも、何か手土産を持って行くにも、貴族の方の口に合うような物って、そうそう無いしなぁ」
二人とも少し悩んで、ちょっとだけ難しい顔をして、それから、ドラゴミールが思い立ったようにこう言った。
「そう言えばお前、結構チーズに関する舌は肥えてんじゃん」 「まぁ、チーズは好きだしね」
「お前が選べば美味しいチーズ見付けられるだろうし、チーズでも持ってく?」
「そうだな、それが良いかも。
デューク様もチーズが好きなようだし」
デュークというのが、アヴェントゥリーナの息子だ。控えめな態度と風貌だけを見ると小食そうに見える人物なのだが、 実は結構食い意地が張っている。そして、少し癖のある食べ物を好むので、 手土産にチーズを持っていくというのは良い案だろう。
午後は練習を休むと言う事は既に他のメンバーに伝えてあったようで、ドラゴミールとウィスタリアは、 まずはチーズを買いに街へと出かけた。
美味しいと街で評判のチーズ屋で買ったのは、ふわっとした白カビが生えそろった柔らかいチーズ。それを包んで貰い、 二人はアヴェントゥリーナの屋敷を訪れた。
使用人に案内されティールームに行くと、この屋敷の女主人、 アヴェントゥリーナと息子のデュークが歓迎してくれた。
「あらあら二人とも久しぶりね。
ウィスタリア君もドラゴミール君も元気だった?」
にこにこと話しかけてくるアヴェントゥリーナに、ウィスタリアとドラゴミールは一礼して返す。
「はい、おかげさまで元気です」
「おかげさまで病気はしていませんよ。」
それから、ウィスタリアが手に持っていた包みをアヴェントゥリーナに差し出す。
「それで、いつもお誘い戴くだけでは恐縮なので、今日は手土産をお持ちしました」
アヴェントゥリーナはつつみを受け取り、訊ねる。
「あら、そんなに気を遣わなくて良いのに。
これはなんなのかしら?」
「白カビのチーズです。お口に合えば良いのですが」
チーズと聞いてにこりと笑ったアヴェントゥリーナは侍女を呼び包みを渡す。それから、 切って持ってくるようにと指示を出した。侍女が部屋から出たのを確認し、 ウィスタリアとドラゴミールの二人を椅子に座らせ、息子の方を向いて言った。
「良かったわねデューク。あなた白カビのチーズ好きだものね」
早くチーズを食べたいと言った顔をしていたデュークが、掛けられた声にはっとして表情を取り繕う。
「そうですね、ありがたいです。
ウィスタリアもドラゴミールもありがとう」
素直にお礼を言うデュークに、ウィスタリアは答える。
「いえ、手土産にチーズを買っていかないかと言い出したのは、ドラゴミールなので」
するとドラゴミールも言う。
「でも、チーズを選んだのはウィスタリアなんですよ。チーズだったら俺よりもウィスタリアの方が舌が肥えてるから」
お互いにそう言いあう二人を見て、デュークはくすりと笑う。
「そうなんですね。
それにしても、相変わらず二人とも、仲が良いですね」
仲が良いと言われてウィスタリアは微笑むが、 ドラゴミールはなんとなく恥ずかしいようなこそばゆいようなそんな心地になってしまい、 曖昧な笑顔を浮かべながらつい顔が熱くなってしまうのだった。
手土産で持って来たチーズを切ってもらい、紅茶を振る舞われたので、 楽しく話しながら紅茶をいただく。今回出された紅茶は、燻した香りのする癖のあるものだった。
おしゃべりと紅茶を楽しんだ後、ドラゴミールとウィスタリアは、館の主二人に歌をせがまれたので、 何曲か歌う事になった。
いま劇場で公演しているオペラの曲だけで無く、過去に舞台で歌った曲を少し。抜けるような高音と、 染み渡るような低音がティールームいっぱいに広がった。
歌を披露し終わった後、 アヴェントゥリーナの屋敷から直接劇場へと向かう。楽しい時間でついうっかりしてしまっていたけれど、 時間が押している。
開演時間がもうすぐという頃に楽屋裏に着いたドラゴミール達は、 入り口で待ち受けていたシルヴィオに難しい顔で迎えられた。
「急げ。ドラゴミールは出番までまだ時間があるが、ウィスタリアは余り間が無い。準備を手伝おう」
怒られずに済んだと安心したドラゴミールだが、 準備のための部屋にウィスタリアを押し込んだシルヴィオがこう言った。
「後で説教するから覚えておけ」
「ヒェッ……」
やっぱり怒っていた。
後で説教を喰らうのは怖いけれども、 ここでまごまごしていて出番に間に合わないと殊更に怒られてしまう。後で叱られるのはそれはそれで置いておいて、 まずは準備に集中しようと、ドラゴミールも部屋に入って衣装を手に取った。
公演も終わった真夜中、ドラゴミールの部屋にドラゴミールと、ウィスタリア、 それからシルヴィオの三人が揃っている。
揺れるランプの灯に照らされたシルヴィオの顔は厳しい物で、どんな風に説教されるのかと、 残りの二人はビクビクしている。
「で、あんなに遅れて舞台裏に来たことについて、何か弁明は」
普段よりも低い声でそう言うシルヴィオに、ウィスタリアが恐る恐る答える。
「あの、その、自分の時間の管理不行き届きです……」
それから、ドラゴミールもビクビクしながら答える。
「うっかりって言うか、あの、はい。自分の管理能力の無さが原因です……」
それから少しの間、薄暗い部屋の中にはどんな音も響かなかった。
ランプの灯が一瞬大きくなり、ドラゴミールはつい体を震わせる。シルヴィオからどんな言葉が返ってくるのか、 嫌な動悸を感じながら待つ。
シルヴィオが口を開いた。
「舞台は仕事だ。きちんと時間を守って貰わないと困る」
「は、はい……」
「申し訳ないです……」
ドラゴミールとウィスタリアが縮こまりながら返事を返すと、ふっとシルヴィアが表情を緩めた。
「ここでお前達が、遅れた理由を他の誰かのせいにしていたとするならもっと言う事があっただろうが、 そうでは無いからな。
今回は時間を守れと言うだけに留めておこう」
その言葉に、ドラゴミールは俯いていた顔を上げ、シルヴィオに抱きつく。
「ほんとか? シルヴィオ優しい!」
「お前調子に乗るな!」
なんだかんだ言いながらも仲良くしているドラゴミールとシルヴィオを見て、 ウィスタリアはつい、小さな笑い声を漏らした。