噎せ返るように熱い空気。周りを見渡すとそこはただただ光に溢れる場所で、天も地も区別がなかった。その中にただぽつんと、一台の真っ黒いフォルテピアノが置かれていた。
それに歩み寄って蓋と鍵盤を開け軽く弾いてみる。今までに使ったフォルテピアノとはどこか違う。どこが違うのだろうと何曲か弾いてみて、気がついた。このフォルテピアノは今までに私が演奏したどのフォルテピアノよりも、弦が強いようだ。
このフォルテピアノなら、思うままに弾けるかも知れない。そう思った私は、いつか自分で作曲し、けれども満足に弾けていなかったお気に入りの曲を弾く。始まりは静かなせせらぎのように、徐々に速度を上げ低音と高音は厚い層を成し、その音に誘われて、私は強く鍵盤を叩いた。重みのある低音に跳ねる高音。時折穏やかになる曲調。それはまさに私がイメージする命の激しさだった。
何度か様子を見ながらその曲を弾く。何度も繰り返しているうちに、元の譜面通りでは満足が出来なくなり、様々な技巧を加え、華やかな物へと変わっていく。
この曲はこんなにも素晴らしかったのだ。私が思い描く命という物とは少し違うけれども、きっと激しい運命を生きる人の命は、生命は、きっとこの様に煌びやかでうつくしいものなのだろう。
弾いているうちに、この力の入れ方では絶対に、私が知るフォルテピアノでは演奏が出来ないと言う域にまで達した。それでも弦が切れる様子を見せないこのフォルテピアノがなんなのかが不思議だったけれども、思いのままに弾く事が出来て、ただただ私は官能的で甘美な幸福に身を委ねていた。
ふと、近くで鳥の羽音が聞こえた。驚いて手を止め周りを見渡すと私の右側に白鳥に乗り、リュートのような楽器を持った女性が立っていた。周囲の光に照らされて輝く彼女は、まるで天使様のように見えた。
彼女がゆっくりと口を開く。
「あなたは音楽の器。あなたは音を奏でる事に縛られ、呪われているのです」
呪い、と聞いて背筋が泡立った。彼女はなにを言っているのだろう。私が呪われている? 音楽に呪われている? それは一体どう言う事なのだろう。
「それは、一体?」
私がそう訊ねると、彼女はこう答えた。
「あなたの魂は、音楽という概念に愛され、そしてあなたも音楽に魅せられ、囚われているのです」
概念に愛されるというのはよくわからないけれど、私が音楽に魅せられ、囚われているという自覚はある。それを追い求めるのがつらい道だというのもわかっていても、離れられないのだ。
その気持ちを察したのか、彼女は手に持ったリュートの弦をヘラのような物で弾く。私が知っている硬質な音ではなく、どこか柔らかく不思議な音色だ。
彼女が奏でる初めて聞く曲調の音楽に私は興味を持った。この曲は、どこの国で奏でられている物なのだろう。もしかしたらあのリュートも、私が知っているリュートではないのかもしれない。
女性がゆっくりと演奏しながら口を開く。
「あなたは何度死んでも音楽を奏でる運命にあります。それはひどくつらい道のりで、もしかしたら安楽な生とは無縁になるかもしれません」
何度死んでも、と言うのはどう言う意味だろう。人の命は一度きりで、死んだ後はそれぞれ地獄に行くか、天国に行くか、もしくは裁きの日まで煉獄で待つか、そのどれかのはずだ。
私の疑問にも気づかず、彼女は言葉を続ける。
「今も音楽に取り憑かれつらい生を送っているでしょう。
私ならあなたのその呪いを解く事ができますが、どうしますか?」
何故彼女には私にかかった呪いとやらを解く事ができるのだろう。疑問は尽きない。
言われたとおり、私は今まで、そう、幼い頃に音楽院に入ってからずっと楽器や歌の厳しい練習と訓練を重ねてきた。もしこの訓練が音楽のためでなかったとしたらつらくて逃げ出していたと言うくらい、その環境は厳しかったし、歌手になった今でさえ、音楽院にいた頃のように、日々歌も楽器も練習を欠かしていない。
けれどもそれは音楽のためであればこそ。私はその中に喜びを見いだしているのだ。
だから私は、女性に迷わずこう答えた。
「音楽に愛されているのであれば、私はそれを甘んじて受けます。
呪いを解く必要はありません」
すると女性は、優しい微笑みを浮かべて私を見て、すぐさまに周囲の光に溶けて消えてしまった。
目を覚ますと、目の前に煤で汚れた先輩の顔があった。何があったのだろうと思っていると、宿舎で火事が起き、その中で眠ったまま起きなかった私を先輩が助け出してくれたのだという。
私がお礼を言うと、余程緊張していたのだろう。先輩が涙ぐむ。それを見て、こんなにも素晴らしい人達と、音楽は出会わせてくれたのだなと思う。
先程の不思議な夢はなんだったのだろう。もしあの時、呪いを解いて欲しいといったらどうなっていたのだろう。疑問は残るけれども、火傷を負ってでも私の事を助けてくれた先輩の事を抱きしめ、ただただ安堵した。