海上の鎮魂曲

 それは喜ばしい辞令だった。今度処女航海を迎えるという豪華客船に乗り込む楽隊に、僕も選ばれたのだ。僕と一緒に辞令を受け取った先輩も嬉しそうな顔をしている。余程嬉しかったようで、その日の晩は僕と先輩のふたりで、ゆっくりとワインを傾けた。
 先輩は今までなかなか芽が出なかったバイオリニストだけれども、女の自分でもそんな大舞台に立てるのだと、実力を認められたのだとそう言った。先輩が今までに重ねてきた努力を僕は知っている。だから、やっと自分のすごさに気づいたのか。これくらいの役職は当然だと言う先輩の言葉を、不思議と可愛らしいなと受け取れた。

 それから数日後、僕達は船に乗り込んだ。こう言ったいわゆる豪華客船に乗り込むのは初めてではない。けれど、先輩は初めてなので、壮麗な屋敷のように飾られた船内を見て意外そうな顔をしていた。
 僕達演奏家が泊まるのは、二等船室だ。他の一等船室や三等船室には行かないよう、きつく言われている。
 ふと、先輩が呟く。私も一等船室に泊まりたかったと。華やかな物が好きで自らもうつくしい先輩がそう思ってしまうのは仕方がないだろう。そんな先輩に僕は言う。僕と同じ二等船室では不満ですか? 先輩はぷくっと膨れて、あんたと一緒なら妥協する。とそう言った。
 客室に荷物を運び込み、指定の時間までに身嗜みを整える。早速、演奏の仕事が入っているのだ。手にバイオリンを持って、途中先輩に声を掛けてレストランへと向かう。先輩も同じように、バイオリンと弓を持っていた。
 レストランに着き、沢山の人が食事をする前で楽団の演奏が始まる。この曲はあの人達が食べている食事に合うだろうか。美味を引き立てているだろうか。きっと楽長はそんな事を考えているのだろう。僕が気になっている事と言えば、先輩の演奏だ。ソロパートがあるわけではないけれど、先輩が奏でる音は、他の楽器の音と混じらずに、真っ直ぐに僕の耳へと届いていた。
 みんなは僕の方が演奏が上手いと言うけれども、先輩の奏でる音は僕には到底真似の出来ない、強い情念が籠もっていて、僕はそれに憧れてやまなかった。

 豪華客船に乗り込み四日目。この日も夕食の演奏を終え、遅めの食事を済ませた後。自室でゆったりとバイオリンの手入れをしていた。ボディを磨き、弓に松脂を塗る。こうやって手を掛けた楽器は、より良い音を出してくれるのではないか、そう思っているのだ。
 手入れをしたバイオリンをしまい、ベッドに横たわってしばらく。突然大きな振動が船を襲った。
 一体何だろう。まさか高波にでもぶつかったのだろうか。いや、それにしてはその後の揺れが少なすぎる。
 不気味な静けさ、不快な胸騒ぎを感じつつしばらくじっとしていると、突然誰かが部屋のドアを叩いた。その誰かは、すぐに演奏の準備をしてデッキに出ろという。
 本当に、突然どうしたのだろう。不思議に思いながら着替え、バイオリンを持って部屋から出る。途中で先輩とも合流した。眠そうに目を擦って、こんな夜中まで起きてたら肌に悪いという先輩を宥めながら一緒にデッキへと出た。

 デッキに出てすぐに気がついた。僅かながらも船体が傾いているのだ。そこにいた船長が言う。船客を落ち着かせるために、最後の演奏をして欲しい。それを聞いて察した。この船は沈むのだ。
 先輩は僕の腕を掴んで首を振る。船が沈むと知って、今すぐにでも逃げ出したいのだろう。けれど、脱出用のボートはまだ準備されていなかった。
 楽長が僕達に指示を出す。先輩も、脱出用のボートがまだないしと渋々バイオリンを構えた。調弦の音が響く。寒々しい夜の闇。凍り付いた音は暗い海に落ちて砕けてしまいそうだった。
 演奏が始まり、奏でられるのは明るい曲ばかり。それもそうだろう。ここで下手に暗い曲調のものを演奏したら、何が起こっているのかわからずに、甲板の上で慌てふためいている乗客達に要らない不安を与えてしまう。
 脱出用ボートの準備が整ってきた。女性と子供が優先と言う事で、沢山の女性と子供がいくつものボートに乗せられていく。先輩の方を見ると、明らかに動揺して弓を引く手がぎこちなくなっている。
 そのまま演奏は続き、最後の一台の脱出ボートが用意された所で、演奏は終了した。
 楽長が、楽士達に逃げる様に言う。先輩が真っ先に僕の手を取って、ボートの方へと走って行った。
 先輩の手は思いの外強く、足をもつれさせながらついていく僕に言う。
「私はまだ死にたくない!」
 だいぶ傾いた甲板の縁に着き、先輩は僕の方を見る。僕は先輩の背を押し、ボートの中へと押し込んだ。
「先に行って下さい。僕は後から追いつきますから」
 先輩は今にも泣きそうな顔をして、僕に言う。
「絶対に追いつくのよ!」
 その言葉を最後に、ボートは船を離れた。
 僕はまた甲板の中程に戻り、諦めたのか他のボートに乗ったのか、誰もいない甲板でバイオリンを構えて弓を当てる。
 残された沢山の人々に、哀悼を。

 

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